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太平記をスピンオフで歩く。 その8 「兵どもが夢の跡」 福岡市東区

先日からの続きです。

実はすっかり忘れてました。


松崎台地に置いて、敵の大軍を目の前にした足利方。

自軍はとかえりみれば、寡兵は言うに及ばず、満足な武装すらしていない・・・。

「自害する」という主将・足利尊氏を説得し、とりあえず、自害は思いとどまらせたものの、それでも、尊氏を出陣させるまでには至らず、「とりあえず、ここで見ておいてください」で実弟・足利直義少弐頼尚ら一部の部下だけで出撃。

ずらりと対岸に布陣した菊池武敏率いる宮方と交戦すべく、川を渡ろうと押し出したと。


「断固として血を流すことを辞さない者にはすべてが敗れる」とのプロイセンの参謀、クラウゼヴィッツの言ですが、本来、先に川を渡るのは大軍を有する宮方でなければならないのに、足利方は寡兵で、かつ、満足な武装すらしていないのに川を押し渡ってくる。

宮方の将兵らは正直、感動すらしたのではないでしょうか。

上杉謙信前田利家が、敵に囲まれ、落城寸前の味方の城へ単身入城した際には、敵は誰も手出しすることなくこれを見送ったと言いますが、命のやりとりをする戦場では、こういう群を抜いた勇気には誰もが問答無用で感動するもののようです。

ある意味、勝敗の行方は、足利方の馬が川に乗り入れた瞬間に決まったと言っても良いのでは無いかと。


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(↑立花山山頂からの景。第一次と第二次、ここでは戦場絵巻が繰り広げられていた。)


一説によると、強風により、砂塵が宮方へ吹きつけたと言う話もありますが、運も実力のうち。

砂塵が吹いたから渡河しようということではなく、敢然として渡河しようとした足利方に運も味方したということだったのでしょう。

現在の一帯の気候風土を見る限り、砂塵が舞うような感じには思えません。

まあ、今は護岸とアスファルトに覆われていますから、往時と重ねるのは無理があるのでしょうが、あるいは、その実は攻撃を命じられた宮方将兵のサボタージュの口実だったのかもしれません。


足利方は、多々良川を渡り、敵の大軍が見守る中、敵前に上陸したわけですが、しかし、有象無象に戦意は無いと言っても、さすがに敵主力である菊池隊は戦意旺盛で敢然と反撃に討って出ます。

となれば、寡兵の足利方はあっという間に押し戻され、激戦となったと。

この激戦に決着をつけたは、最期を期した直義が、松崎台地に在って未だに放心状態の主将尊氏の下へ、形見と称し、自らの右袖に着いていた錦の直垂届けさせたことによると言われています。


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(↑後年、小早川隆景が築城する名島城跡より見た多々良川。多々良川が海に出た所に位置するが、現在では住宅が建ち込んで川の位置がすぐにはわからなくなっている。)


さすがに、これを見て、尊氏も奮い立ち、自ら台地を降り川を渡って激戦の中へ突撃。

主将自らが戦線に加わったことで足利方の将兵が力を得たのと対照的に、宮方のほうでは最後尾を守っていた松浦勢が寝返ったことで、自壊の連鎖が発生。

結局、いつの時代も、数を頼りとする方は烏合の衆、大半は宮方有利の情勢を見て、菊池に同心しただけのこと。

(確かに、内心では足利氏方と思っていても、バカ正直にそれを言えば、少弐貞経のようになっていたわけで・・・。面従腹背はやむを得ない選択だったでしょう。)

結果、ついに、菊池勢は総崩れで敗走し、阿蘇大宮司惟直は戦死。


現地説明書きによると、「諸書によれば、この合戦の犠牲者は数千人に及んだと」言うが、昭和46年(1971年)に、この地に福岡流通センターが建設された際、一帯の発掘調査が行われたが、特に合戦を示す物は見つからなかったという。

この戦いの結果、九州のほぼ全域が足利方につくこととなり、完全に体勢を整え直した尊氏は一色範氏仁木義長などを九州の抑えとして残し、再び東上。

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摂津国湊川の戦いで、難敵・楠木正成を破り、室町幕府を開きますが、一方、この戦いで一敗地に塗れたとは言え、菊池氏はこの後も頑強に抵抗を続け、さらにそこへ、観応の擾乱による足利直冬の参戦でさらに九州戦線は混迷深くなっていくと。


まだ、書くことが無いわけでは無いのだけど、一応、これにておしまい。

                   平太独白


by heitaroh | 2018-07-07 14:29 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

太平記をスピンオフで歩く。 その7 「続・激突、多々良浜」 福岡市東区

先日の続きです。


すっかり、余談が長くなりましたが、ここでようやく話を元に戻しますと・・・の前に、立花道雪こと戸次鑑連の墓(↓)です

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で、本題。

まだ要塞化される前の松崎台地に登った足利尊氏が敵のあまりの大軍に絶望し、自害を口走り、弟の直義に止められた・・・という件ですが、実はこの話には伏線があります。


まず、尊氏一行は上方から落ち延びてきたとき、満足な武装すらしていなかったらしく、出迎えた肥前国守護の少弐頼尚の父、貞経が装備品の調達をしていたものの、菊池武敏らに率いられた宮方の軍勢が少弐の本拠大宰府を襲撃したことから、貞経は自害、尊氏一行の為に用意されていた武具もすべて焼失してしまったと。

つまり、尊氏が松崎台地の上に立ち、「もうダメだ」と嘆いたとき、その彼我の兵力差もながら、満足な武装すらしていなかったわけで、素手で完全武装した10万の軍隊に立ち向かうような気分だったでしょうか。

なるほど、確かに、尊氏ならずとも、「こりゃだめだ」という気になるでしょうね。

惨めに辱めを受けるくらいなら・・・と思うのもわかるような気がします。

さらに、自害するという尊氏を諫めたのも実弟直義ではなく、足利軍に加わっていた少弐頼尚だったという話もあります。

頼尚は、既に父を討たれているのみならず、敵軍を主導する菊池武敏とは仇敵の間柄、降伏という選択肢はなかったでしょう。


両者の確執は建武の新政の直前、一足早く決起した菊池一族が鎌倉方の鎮西探題館を襲撃した際、少弐、大友も誘ったにもかかわらず、彼らは裏切り探題側について菊池氏を攻撃。

結果、菊池一族は敗退して、多くが館の一角で首を切られました。


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(↑昭和の地下鉄工事の際に大量の頭骨が出土した所。識者により、この時に処刑された菊池一族の物では無いかと。)


なのに、ほどなく、中央で足利尊氏によって六波羅探題が陥落との情報が届くと一転、少弐、大友は鎮西探題を攻め、これを陥落せしめています。

菊池一族からすれば、「あいつらだけは絶対に許さん!」だったでしょうね。


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(↑尊氏はこの状態のまま、宗像大社に戦勝を祈願。筑前国宗像を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて筑前国の多々良浜に進出します。この期に及んでも尊氏に味方しようとする勢力があったということは注目すべきかと。)


ということで、次回に続きます。

                 平太独白

by heitaroh | 2018-05-13 17:26 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

太平記をスピンオフで歩く。 その4 「第二次多々良浜合戦」 福岡市東区

先日の続きです。

足利尊氏が敵の大軍を見て絶望した所はあまり見通しも良くなかったので、行き止まりとは書いてあったのですが、もう一段下の道に降りてみました。

ここは、高さは尊氏望見の場所より一段低くはなるのですが、目の前を遮るような物は無く、「穴場」かと思われるほど眺望が利きました。


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(↑まさしく、この建物が建ち並んだ部分に敵が充満していたのだと思うと、尊氏が絶望したというのもあながち、嘘でもないような。)

敵は二万騎といいますが、もし、純粋に戦闘要員だけが二万人いたとして、一人辺りの占有スペースを1㎡で計算すれば、単純に2kmx1km。

正面に対峙する形で出来るだけ展開させたとすれば横方向に2km、奥行き1km。

つまり、ほぼ、ここから見える風景の前半分はすべて敵で埋まっていたということになります。


で、この撮影ポイントですが、突き出した二本の山の尾根の上にあって、その尾根と尾根の間がUの字になっており(↓)、これって、自然の地形にしては出来すぎてるんですよね・・・、何だか出丸みたいで。

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でも、ここが城だったとは聞いたことが無いし、何より、尊氏が登ったときは決戦の直前であり、土木工事をする余裕なんて無かったはずです。

で、思い出しました。

多々良浜合戦は二度あったんだ・・・と。


第一次合戦で川を挟んで睨み合ったのが足利尊氏と菊池武敏であったのに対し、第二次合戦で対峙したのが大友宗麟毛利元就

ただ、大友と毛利の合戦と言いながら、実際には大友宗麟は実戦型の武将では無く、毛利元就はこの時、既に高齢であったため、実際に対峙したのは、それぞれ、立花道雪小早川隆景でしたが、両者ともに代理とは言え、音に聞こえた名将同士。

西の川中島」と言っても良い、上杉謙信、武田信玄にも劣らぬ激しい合戦が繰り広げられたようです。

もっとも、この戦いも川中島合戦と同じく、一回きりの決戦では無く、長期間に渡り、計18回の対陣があったと言われており、そのうち、激戦となったのが永禄121569518日の合戦だと言われています。


この戦いはそもそも、第一次と違い、在地領主同士の領土拡張戦争。

従ってその目的は、多々良川の領有ではなく、国際貿易港・博多の確保のための筑前奪取であり、そのためにまず目標となったのが要衝・立花山城の領有でした。

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(↑山頂付近より振り返る立花山。)


いわゆる、「目的はパリ、目標はフランス軍」ならぬ、「目的は博多、目標は立花山城」ですね。


次回に続きます。

                      平太独白


by heitaroh | 2018-02-15 06:04 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

太平記をスピンオフで歩く。 その3 「多々良浜合戦」 福岡市東区

先日の続きです。


足利尊氏が見て、敵のあまりの大軍に絶望したといわれる風景はこの辺だろう・・・と思いつつ、そこを過ぎ、少し先の、台地が一番高くなっている辺りに来てみたところ・・・、見事に、「ビンゴ!」でした。

そこは、樹木が繁っていた関係で、あまり、見通しはよくありませんでしたが、ふと見ると、傍らの説明看板(↓)に、「ここです!」の記載が・・・。


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改めて、傍らの樹木の間から透かしてみると、こんな(↓)感じでした。

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ちょっと、わかりにくいですが、樹木が無ければ前回掲示した画像より、もっと見晴らしがいい風景が写っていたと思います。


で、ここを過ぎ、少し下に行くとこの看板(↓)が・・・。

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まったく存在は知られてませんが、しっかり、地元では尊氏が本陣とした所という認識はあったわけです。

ただ、私は逆から上がってきてしまったので、説明看板に出くわし、それから、この看板を見ましたが、こっちから上がってきてたら、説明看板の所には辿り着けなかったかもしれません。

台地の頂きには現在、ガスタンクのような物が建っているのですが、私が上がってきた方の遊歩道は多々良川の方向からすると裏側になり、そこから、タンクを回り込むような形で「行き止まり」と書いてある道があり、市内とはいえ、そう滅多に来る所じゃないからついでに覗いておこうと、そちらへ行ってみたところ・・・。


ということで、次回に続く。

乞うご期待!

                 平太独白


by heitaroh | 2018-02-01 07:47 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

太平記をスピンオフで歩く。 その2 「寒風多々良川」 福岡市東区
先日の続きです。

建武3年(1336)、後醍醐天皇建武の新政から離反した足利尊氏は、楠木正成北畠顕家らと戦って敗れ、再興を期して九州へ落ちていったわけですが、九州では足利方に味方していた肥前国守護の少弐頼尚らに迎えられます。
少弐氏はその後の戦国乱世が進行するうちに滅亡したので、今ではあまり知る人も少ないと思いますが、当時は元寇などでも奮戦し、島津、大友と並ぶ、九州御三家大名の一つに数えられるほどの勢家でした。
(元々、少弐とは「次官」という意味で、鎌倉幕府が成立すると外様の御家人・武藤氏が大宰府の少弐に任じられ、以後、少弐を名乗りとしたと。)
その少弐らに先導され、筑前に入った尊氏ですが、待ち構えていたのは、宮方に味方した肥後国の菊池武敏をはじめ、筑前国の秋月種道、肥後国の阿蘇惟直、筑後国の蒲池武久、星野家能ら九州の諸豪族の大半2万騎以上。
菊池武敏に主導された宮方勢は、まず、少弐氏の本拠・大宰府を襲撃し、頼尚の父で菊地の長年の宿敵・少弐貞経を自害させます。

一方、足利勢は、宗像大社(現福岡県宗像市)に戦勝祈願した後、筑前国の多々良浜(福岡市東区)に布陣した宮方と向かい合うことになります。


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(↑寒風水面を渡る多々良川。)

このとき、足利軍は約2千騎(太平記によると300)に過ぎず、尊氏は敵の大軍を見て戦意喪失、「切腹する」と言ったと伝わります。

この話がどこまで本当なのかはわかりませんが、過日、時間が空いた際に、「多々良浜古戦場の碑」を見て、せっかくだからすぐ横を流れる多々良川まで行くか・・・と思い、行ってみたのですが、そこに飛び込んできたのがこの(↓)風景。

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以前から、「尊氏が多々良浜合戦を前に陣を敷いたとすればこの丘だろうな」と思っていたので、一度、行きかけたのですが、当時はカーナビも無い時代、ちょっと車では入っていきづらかったこともあって、今までちゃんと行かないままでした

なので、ちょうど時間はあるし、車はないし、ちょっと行ってみるかと。

で、この丘、画像では大したことないように見えるかもしれませんが、結構、高さがあり、坂を登りつつ、尊氏が眺めたとすればこの辺りだろう・・・と見た風景がこれ(↓)。

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(川面は見えませんが、中央に走っている都市高速の手前下が多々良川です。)


この辺りは川の河口ですから、当時は、割とすぐ下まで潟と呼ばれる湿地帯が来ていたのでは無いでしょうか。

木立の隙間から見える風景は、なるほど、意外に眺めが良いなと。

腹を切ると言ったかどうかは別にして、おそらく、尊氏がここへ登ってきて敵陣を俯瞰したのは間違いないでしょう。

とすれば、この向こう、川の向こう側の平地一杯に敵兵が充満しているわけで、こちらは満足な武装も無い・・・。

尊氏が「もはやこれまで」と思ったのも無理は無いかと。


で、尊氏の実弟、足利直義はこれを押しとどめ、自ら、奮戦して菊池軍を撃破。

これにより、九州のほぼ全域を掌握した尊氏は捲土重来で東上し、湊川の戦いで楠木正成を敗死に追い込み、室町幕府を成立に漕ぎ着けたと。

ただ、これを押しとどめたのは傍らに居た少弐頼尚だったという話もあり、もし、そういう話があったとすれば、こっちのほうが本当で、直義はそれに同調したというところではなかったでしょうか。

頼尚からすれば、既に父は殺されているわけで、復仇の念に燃えていたでしょう。

次回に続く。


                         平太独白


by heitaroh | 2018-01-26 19:25 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

太平記をスピンオフで歩く。 その1 「多々良浜古戦場の碑」 福岡市東区
今、せっかくアップしたのですが、なぜか、消えました。
ばかばかしくてやってらんないので、さわりだけ書いてみます。

先日、車を修理に出したところ、「完成するまで、3時間ほどどこかで時間を潰してきてくれ」と言われたので、やむなく、周囲の地図を見ていると、「多々良浜古戦場の碑」という文字が。
さらに、近くには「兜塚」という文字も見える・・・。
すぐ近くには、多々良川という川が流れており、ここで、南北朝時代に足利尊氏が菊池武敏らを破った「多々良浜合戦」が行われたことは知っていましたので、もしや・・・と思い、行ってみました。

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(↑多々良浜合戦の戦死者を祀った兜塚。)

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(↑一方、こちらは「多々良浜古戦場の碑」。何か、古戦場の碑ではなく、国体か何かの記念碑のような。)

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(↑でも、表題を見ると、「多々良潟の碑」とあり、「必ずしも、古戦場ということにはしてないんだ」と思ったけど、下の説明板を見ると、しっかり、「古戦場の碑だ」と書かれている。なーんか、作っている途中で、「そぐわない」とかいう意見が出て、こんな玉虫色のことになったんじゃないの?って気が。)

で、まず、戦いその物について、簡単に触れておきますと、この戦いは、建武3年(1336)、後醍醐天皇建武の新政から離反した足利尊氏楠木正成北畠顕家らに敗れた際、再興を賭して九州に下り、迎え撃った肥後国の菊池武敏、阿蘇惟直ら2万の軍と激突。

足利軍は約2千騎(太平記によると300)に過ぎず、尊氏は敵の大軍を見て戦意喪失。

切腹すると言ったが、尊氏の実弟、足利直義はこれを押しとどめ、自ら、奮戦して菊池軍を撃破。

結果、九州のほぼ全域を掌握した尊氏は再び、体勢を整え東上、摂津国湊川の戦いで楠木正成を破り、室町幕府を成立させた・・・と。

つまり、日本史の大転換を果たしたという意味で、極めて、エポックメイキングな戦いなのですが、これを詳述した物は殆ど見た記憶がなく。

おそらく、詳しいことはわからないのではないでしょうか。

ということで、実際に自分の足で行ってきたわけですが、疲れましたので、また後日に続くの巻。

もう消えないよな・・・。

                           平太独白


by heitaroh | 2018-01-20 07:35 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

備忘録的感慨その2 尊氏登場以前の足利家の息吹
先日の続きです。

実は私が足利に来た目的は足利学校を観たかったから・・・ではなく、その裏にあるこちら(↓)でした。

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足利尊氏によって室町幕府が開かれる以前の足利家の墳墓の地、つまり、尊氏登場以前の足利家の息吹というものを見ておきたいと思ったからで、それがここでした。
足利家屋敷跡と言われる真言宗金剛山鑁阿寺です。
ただ、私にはここはなんとも釈然としないものを感じさせる場所でもありました。

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確かに、ここは四周を土塁で囲まれた形(↓)をしていますが、何か武家屋敷としての戦闘性とでもいうか、そういうものが感じられないんですよ。

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まあ、尊氏が室町幕府を開いてから600年以上経っていることもあり、今では寺になっていますから、やむをえないのでしょうが、それでも・・・と。

で、この日は終日、雨は降らないという予報だったにも関わらず、突然、雨が降ってきて、しばらく雨宿りしていたものの、一向にやむ気配がなく・・・、
少し小降りになってきたのを見て、再び、歩き始めたのですが、さすがに濡れ鼠になってきたので、この辺で切り上げて帰ろうか・・・と思い、駅の方向へ向けて歩き始めたのですが、途中で、どうにも消化不良のものを感じ、再び、歩みを戻しました。

e0027240_703166.jpgで、外回りをぐるりと一周することにしたのですが、そこで初めて気づいたんです。
「背後に山があるじゃないか」・・・と。
つまり、武田信玄躑躅ヶ崎にしても、織田信長岐阜城にしてもそうですが、平時は麓の館で政務を執り、有事の際には背後にある山城に立てこもって戦うというのが、当時の武家屋敷の一般的な形ですから、もしや、足利館もそうだったのではないかと。
で、疲れた体を奮い立たせて、この山の方向へ向かいました。
この山は見ておかねばならぬ・・・と。

明日に続く・・・と思いますが未定です。
なんせ、空き時間がないもので・・・。
                         平太独白

by heitaroh | 2011-05-19 07:10 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

足利に来ています
e0027240_15295773.jpg今日は4月最後の休み。
朝から栃木市内の友人を訪ね、陽光の下、川下りに遊び、焼きそばをご馳走になった後、独り足を延ばして足利に来ております。
足利と言えば、足利学校でしょうが、むしろ私が見たかったのが足利尊氏で知られる足利氏の足跡を訪ねることでした。
で、行きたかったのが足利氏邸宅跡と言われる鑁阿(ばんな)寺

(←足利氏邸宅址に建つ楼門です。尊氏・直義兄弟も、高兄弟もこの地で育まれたのだと。)
しかし、それならば、その後の関東公方らはなぜ、この足利の地に本拠を構えなかったのでしょうか?

元々、益少なき地ならば足利氏もここを本拠とはしなかったでしょうし、堀越や鎌倉はまだしも古河に本拠を構えるくらいなら、ここに帰って来た方が人心鎮撫の意味からも良かったのでは・・・と。

…などと書いていたら雨が降って来ました。
すぐやむかなと思っていたら降りが強くなって来ました。
明日から雨だというけどやまないってことはありませんよね?
                     平太独白

by heitaroh | 2011-04-26 15:29 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

摂津播磨の旅 その5 須磨浦高地から見る戦線の是非
親愛なるアッティクスへ

先週からの続きです。

そんなこんなで、須磨寺を出て、山陽電鉄にて須磨浦公園駅へ。
ガイドブックを見る限りでは、もう少し、一ノ谷合戦の史跡が有るようになっていたのですが、行ってみると、敦盛塚と呼ばれる塚があるだけで、しかも、どうやら、後世建てられた物であるとのことで、やむなく、ケーブルカー須磨浦公園展望台へ向かいました。
ところが何と、ここは、遊園地なんですね。
親子連れカップルばかりの中、明らかに場違いなオヤジが一人・・・。
でも、ひるむことなく、山頂の展望台へ・・・。
で、そこから見た風景がこれでした。

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↑まず、ここから東側の神戸市内を見た風景。

e0027240_1522305.jpg←次に、この須磨浦公園から直角に真下を見た風景。
わかりにくいのですが、海岸線に沿って、JR山陽本線、山陽電鉄本線、それから、一番狭い部分では片側一車線となった国道二号線が走っています。

e0027240_15231792.jpg←そして、こちらが西側の明石方面を見た風景。
明石海峡大橋が見えます。)

つまり、これらを見て明らかなとおり、ここは東に拡がる大阪平野と西に拡がる播磨平野 との分岐点なんですね。

従って、現在でもこの狭い海岸線にひしめくように電車や道路が走っているわけで、おそらく、ここは明治以前は旅人を難渋させた交通の難所だったのではないかと思われます。
つまり、この須磨浦公園の高地を占拠すれば、東西、どちらから来た敵にも対処できるわけで、そう考えれば、楠木正成湊川などで足利尊氏の大軍を迎え撃たずに、この須磨浦高地迎撃するべきではなかったかと。
あるいは、正成はここを目指して進軍中に、間に合わずに湊川辺りで遭遇してしまったということだったのでしょうか。
あるいは、ここに籠もってしまっては、敵は押さえの兵力だけを残して、主力は京都へ向かうということを懸念したのかもしれませんが、でも、それはどうせ同じ結果に終わるだけの話であり、だったら・・・と。

また、であるからこそ、正成と違い、それなりの兵力を集め、乾坤一擲源氏軍を待ちかまえていた平氏軍は、大兵力が展開しやすいここの東の大阪平野の末端部分に展開していたのだと。
つまり、平氏軍としては、南は海、西と北は山地で守られているわけですから、敢えて西北南の防衛戦には目をつぶり、思い切って、兵力の大半を正面の東側防衛戦に結集することで、ここで雌雄を決しようとしたわけですね。
これはこれで、平氏側の兵力配置は計算上は間違っていなかったでしょう。
ただ、惜しむらくは平氏側には我が世の春謳歌しすぎたのか、これは多分に机上の戦闘計画だったように思えます。

私がそう思う理由・・・、それは、北と西はともかく、南側の海に、いつでも逃げられるようにを浮かべていたことです。
後の、戦国時代になってくると、こういう場合、少なくとも、名将と名が付く人であれば、船など浮かべずに背水の陣で敵に当たったでしょう。
だから、源 義経率いる源氏の別働隊が北側の山を踏破して鵯越から攻めかかると、あっけなく、敗走しちゃったんじゃないかと。
「いざとなったら、船に乗って逃げればいいさ・・・」では戦いには勝てないよと。

もう一回くらい続く・・・でしょう。
                               平太独白
by heitaroh | 2008-11-18 15:08 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

摂津播磨の旅 その2 情報伝達システム
親愛なるアッティクスへ

先日からの続きです。

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(↑新幹線に乗る寸前、新神戸駅から撮った一帯の夜景です。)

私が「なぜ、楠木正成足利尊氏の大軍を、大軍に有利な、比較的平地が開けた湊川などで迎え撃ってしまったのか・・・」ということについて考えていたところ、ふと、思ったのが、正成に迎撃を命じた後醍醐天皇はどうやって、尊氏進発を知ったのだろうか?ということでした。
当時は、鎌倉幕府が倒れて間もない時代であり、かつてはあったであろう、「早舟」早馬狼煙などによる情報伝達システム整備されていたようには思えないんですよ。
ああいう物は、維持を怠れば、すぐに廃れてしまう物ですから。
そこで思ったのが、「もしや、南朝側は敵がかなり近づいてからそれを知ったのではないか・・・」ということです。
つまり、もっと先の場所で迎え撃とうして、間に合わずに、湊川辺りで遭遇してしまった・・・と。

もうひとつ思ったのが、「南朝側は、どの程度、正確な情報を掴んでいたのだろうか?」ということです。
(あるいは、報告よりも先に、の方が先に伝わったのかもしれません。関東大震災の時だったか何だったかは、政府からの公式発表よりも先に、噂の方が伝わったという話を聞いたことがありますから、有り得ない話でもないわけですね。)
まあ、おそらく、実際には、北部九州辺りの南朝側の誰かが早舟で報せたのでしょうが、それでも、一旦、南朝側に敗れて九州に落ちていった尊氏が、大兵力となって再び戻ってくるというのも普通には考えにくいわけで、後醍醐天皇とその取り巻きはどの程度、反乱軍の兵力を掴んでいたのだろうか・・・と思ったわけです。
つまり、敵が少数であると誤認したから、湊川辺りで迎え撃ってしまったのではなかったかと。
もっとも、正成は、「敵は大兵力ですから、一旦、京都に誘い込んで討ちましょう」ということを提案して、却下されていることから、正成はそれなりに正確な彼我の兵力分析が出来ていたのでしょうが、雲上人の後醍醐天皇と側近たちにはその認識があったのだろうか・・・と思った次第です。

などと思いつつ、湊川神社を出て、さて、どこに行こうかと思ったのですが、そもそも、神戸は平 清盛が晩年に遷都したところだし、そういう意味ではそれなりに何かあるんじゃないか・・・と思い、手元にあったガイドブックを見てみると・・・ありました。
(こういうとき、史跡巡り専用のガイドブックなんてのがあると便利なんですけど、それが実際には、なかなか、少ないんですよね・・・。)

で、ちょうど時間となりました~で、次回に続く・・・です。
                       平太独白
by heitaroh | 2008-11-07 19:32 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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