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NHKドラマ「坂の上の雲」に見る配役の妙?配役が妙?
親愛なるアッティクスへ

e0027240_13524073.jpgNHKドラマ「坂の上の雲」・・・ですが、一昨日、今更ながらにようやく、今週分を見ました。
(←関門海峡を見下ろす山に設置された高射砲・・・です。)
ここに至って、ついに筑前福岡藩出身者が出てくるようになりましたね。
まあ、金子堅太郎明石元二郎の取ってつけたような博多弁には触れないとして(それでも、もう少し誰か教えろよ・・・と(笑)。)、劇中、明石を白眼視していた栗野慎一郎ロシア公使もまた、福岡藩出身者なんですよ。

e0027240_13473222.jpgまあ、明石元二郎という人は、ティッシュがないときに痰が出ると、手に「ぺっ」とやって、そのまま、ポケットの中にこすりつけた・・・という人ですから、身なりに構わなかったのは事実のようで、洗練された栗野公使の目から見ると同郷かつ同窓でも合わない存在だったのでしょう(笑)。

(ちなみに、明石は身なりについて人から指摘されると、「筑前武士は身なりなどに気をとられるものではない」と言って、悠然としていたとか。)
結局、栗野は明石の能力に気付かなかったそうですから、同郷といえども、皆が仲が良いというわけではないということなのでしょうか。

e0027240_14402288.jpgまあ、この辺は以前、申し上げた平太郎独白録 : 日露戦争と福岡人の奮闘に見る男装の女傑と人参畑!2をご覧いただくとして、このドラマでもう一つ思ったのが、配役への疑問でした。
主人公クラスの人たちはまだ良いのですが・・・。

一般に顕官貴人と呼ばれる人たちにこの傾向が強く、かつて、映画「二〇三高地」での配役に比べると、「何でこの人なの?」という思いがなきにしもあらず・・・でして。
この点、二〇三高地の配役は良く出来てましたよ。
泣き顔が張り付いた乃木希典(仲代達矢)福顔児玉源太郎(丹波哲郎)・・・。
森繁久彌伊藤博文なんて、どっちが本当の顔だっけ?というくらいありましたから。
e0027240_14471634.jpg

で、「坂の上の雲」で一番いただけなかったのが、石坂浩二さんの山本権兵衛・・・。
山本権兵衛という人は、眼光炯炯、筋骨隆々、相撲取りになろうとまでしたという巨漢で剽悍薩摩隼人・・・ですよね。
であれば、石坂さんはどう見ても優男・・・じゃないですか。
いっそ、伊藤博文役を加藤剛さんと交代した方がまだ良かったような・・・。
ちなみに、劇中、もっとも良くできていると思ったのは・・・、ニコライ皇帝でした。
出てきた瞬間、あまりに似すぎているのに思わず、噴き出してしまいました(笑)。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-12-25 07:16 | 文学芸術 | Trackback | Comments(2)

祝!石の上にも三年の3周年記念! おまけ編
親愛なるアッティクスへ

e0027240_15583244.jpg←昨日、たまたま入った店で昼飯の後に出てきたアフターコーヒーの画像がです。

なかなか個性的な器だな・・・と思って、撮影したのですが、少し、近づきすぎたでしょうか、パッと見は何かわからなくなってしまいましたね(笑)。

で、本日は、3周年記念が、訳あって中途半端に終わりましたので、今更ながらのおまけ編です。
過去二回の周年記念号においては、それぞれ、副題である「アッティクス」と私の名前のいわれについて述べましたので、今回の周年では、私自身のことについて述べてみたいと思います・・・と言いたいところですが、実は、本当は、ここで、別の・・・、もっと、しっかりした周年に相応しい内容を考えていました。
が、それはまた、次回の4周年(あるのか?(笑)。)のお楽しみに廻すとして、私にもっとも相応しくない、私のファッション観というものについて述べてみたいと思います。

かつて、司馬遼太郎をして、「日露戦争において、日本軍陸海両軍匹敵する働きをした」と賞賛しめた、筑前福岡藩出身の軍人、明石元次郎大将は、風采にまるで気を使わなかった人だそうで、人から、「もう少し、気を遣ったらどうだ?」と言われたとき、「身なりなどに気を煩わされないのが筑前武士というものだ」とか。
別にそれに触発されたわけではありませんが、私も、元々、ファッションなんてものにはあまり興味がありませんで、以前、友人にそう言ったら、「あまり・・・じゃなくて、マッタクだろうが」と言われました。
まあ、確かに・・・と(笑)。

ここで、私に好意を持ってくださっている数少ない女性の皆様のために(←ここ、笑うところです(笑)。)くれぐれも誤解のないように申しあげておきますが、ファッションに興味がないといっても、決して、不浄不潔という意味ではありませんよ。
むしろ、逆で、家人などからは、「ちょっと汗かいたからと言って、日に何度も着替えやがって!」と言って怒られてます(笑)。

で、その、ファッションという点では、私にはひとつの理想とする姿があります。
それが、ゴルゴ13です。
ゴルゴ13とは、言うまでもなく、国際社会暗躍するスナイパーを描いたさいとう・たかをロングラン漫画ですね。
(私が幼稚園くらいから連載されてますが、やつは一体、いくつなんだ・・・と(笑)。)

彼は、報酬として大金を得ていますから、決して、貧しいわけではない・・・どころか、大金持ちなんですよ。
しかし、労働者として潜入しなければならない場合には作業服を着るし、浮浪者に成りすまさねばならないときには浮浪者の格好もする・・・。
つまり、私は、おしゃれとしてのファッションについては興味が無く、衣服については、機能性のみしか考えておりませんで、色形などどうでも良く、従って、ブランドなどにはまったく興味がない・・・ということで、強いて、おしゃれなどという物を求めるなら、そのときそのときで、必要なシチエーションにだけ意を持ち得ればいい・・・と思っている次第です。

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by heitaroh | 2008-03-29 17:47 | その他 | Trackback | Comments(6)

遅れてきた志士、筑前福岡藩士 明石元二郎 後編。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_13462751.jpg今日の博多は、桜も終わり、すっかり春爛漫です。
今年初めて、車の窓を開けて走り、ちょっと気が早いけど、アイスコーヒーを作りました。
こういう空を見ていると、今も世の中のどこかで争いごとが起きている・・・なんていうのが、何だか哀しい気分になってきます。
ということで、柄にもなく、平和主義者になったところで、明石元二郎シリーズ完結編です。

ここから先は、戦争終結後の明石に絞って述べてみようと思うのですが、元々、明石が工作資金として使った金は、公に出来ない機密費であり、ごまかそうと思えば、いくらでも、ごまかすことが出来る金であったわけですが、にも関わらず・・・。
明石は帰国時に機密費の使用使途について、きちんとした明細を、わずかな釣り銭と共に参謀本部に提出したそうで、その中には、明石が私的に流用した金、個人の遊興の為に使われた金は殆どなかったとか。
気にしない身なり、明晰な頭脳、動じない胆力・・・、そして、高潔な人柄と言うものが見えてくると思います。
(「身なりなど、顧みないのが筑前武士だ。」とうそぶいていたとか・・・。)

日露戦争終結後、帰国を命じられた明石に対し、ロシア革命運動の同士らは、「大佐、アナタハ、帰国シテハイケナイ!」と、共に戦うことを迫ったと言います。
明石が、この時点で、単なるアジテーターに留まっていなかった・・・、体を張って革命運動を支援していたということの、まさしく、アカシだったのではないでしょうか・・・。
彼は、その要請に対し、「私は、日本の軍人だ。」と拒絶し、帰国します。
この、「日本の軍人・・・。」という考え方は、この後も彼の生涯を貫くものとなりますが、惜しむらくは、明石は日本人としては、生まれてくるのが、40年・・・、いや、20年遅かった・・・。
やはり彼は、20年早く生まれてきて徳川幕府を相手に、勤王の志士として、腕を振るうべきで、日本にとっては、人材の浪費になった可能性が高かかろうとも、彼にとっては、その方が幸せだったような気がします。
(もしくは、同時代人であれば、ロシア人か中国人として生まれてくるべきだったと・・・。)

明石が去った後、ロシアの革命運動は一旦、頓挫し、レーニンらは、国外への亡命を余儀なくされます。
当時、ヨーロッパにおいて台頭していた新興国ドイツは、明石の活動を含め、かなり綿密に日露戦争というものを研究していたようで、日露戦争から10年後に勃発した第一次大戦では、タンネンベルヒ会戦での大勝利と、保護していたレーニンらを秘密裏にロシアに送り返すことで、ロシアを大戦から撤退させることに成功します。
その後、レーニンは、ついにロマノフ王朝を倒し、ソビエト社会主義共和国連邦・・・、通称、ソ連を成立させることに成功します。
ちなみに、昭和20年(1945年)の第二次大戦の日本降伏直前に、満州へなだれ込んできたソ連軍の快進撃に対し、スターリンは「これで日露戦争の仇はとった!」と言ったそうですが、しかし、レーニンは、革命成就後、「明石には感謝状を出したいくらいだ。」と語ったとも言います。

一方、明石は、戦後、一旦帰国したものの、それから間もない明治39年(1906年)、今度はドイツ大使館付武官となり、再び渡欧します。
が、夫人の病状よろしからず・・・ということで、歩兵第七連隊長を命ぜられ帰国。
(夫人は、明石の帰国を待つことなく他界。)
その後、明石は寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官警務部長を兼務し、韓国併合の過程では、「日本の軍人」として、ロシアの時とは逆に革命勢力を弾圧する側にまわります。
このため、歴代の朝鮮統監と並んで、明石の朝鮮での悪名は高いとか・・・。

大正2年(1931年)、任陸軍中将、翌3年、参謀次長として、参謀本部に復帰、7年、台湾総督を命じられ渡台。陸軍大将
台湾時代の明石は、朝鮮在任中とはまるで別人のような感が私にはあります。
こちらの方が、本来の明石なんだな・・・と。
水力発電所設置し、華南銀行設立
さらに、日本人台湾人均等教育を受けられるよう法を改正し、その飾らない性格で、部下からも愛され、現地人の評判も悪くはなかったとか・・・。

大正8年(1919年)10月、特別大演習陪観の為の、東京への船旅の途中、船中において重態となった明石は、急遽、郷里の福岡下船し、治療に専念したものの、この、存命中から、「総理の器」という呼び声も高かった男は同年10月24日、脳出血により、生家にほど近い大名町松本健治郎宅で逝去
遺言により、遺体は台湾に埋葬されたものの、その後の歴史の中で、あまり、良い状態にはなかったようですが、平成12年(2000年)、現地有志の手により改葬されたと聞いております・・・。

世界を股にかけた男が、最後は生まれた地で死ぬ・・・。
彼が望んでそうしたわけではないにしても、これもまた、ある意味、福岡人らしい・・・と。
                            平太独白
by heitaroh | 2006-04-20 18:34 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

遅れてきた志士、筑前福岡藩士 明石元二郎 中編。
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

私は、今から、二十年くらい前に「情報将軍 明石元二郎―ロシアを倒したスパイ大将の生涯」という本を読んだのですが、その中で、明石元二郎レーニンと初めて、相対するシーンが出てきます。
レーニンは、最初に、労働者が吸う安い煙草に火をつけながら、こういったそうです。
「われわれの運動を支援したいという申し入れですが、戦争相手の日本政府から金をもらっていたことがわかったら、民衆は私のことを何というでしょう?レーニンの民衆革命不純な動機からはじまったのだ、と私を非難するでしょう。」
レーニンの言い分は、レーニンの立場に立ったなら、至極、当然のことであり、この話を聞いたとき、まだ、20代半ばだった私は、思わず、ぐっと詰まってしまったことを覚えています。
しかし、これは逆に言えば、「誰からも非難されない大義名分があれば協力したい・・・。」と言ってるようなもので。

もとより、こういう話に議事録などあるわけもなく、話がどの程度、真実なのかはわかりませんが、これを読んだ限りでは、まさしく、国際舞台で相手を説得する上で、教科書となるような会話だったように思えました。
(以下、少し長いのですが、この大著より一部、抜粋致します。)

-------------------------
明石は、「レーニン君、私は君を見損なった!」と一喝し、こう続けたと言います。
「そうじゃありませんか。私は共産主義には詳しくないが、共産主義の始祖・マルクスは過去の制度や社会組織、風習を打ち破って、新しい秩序を作ろうとした……。ところが、あなたはいまだに祖国だの皇帝だの同一民族だのと、古い考え方にこだわっている。いいですか?お互いに目的は一つです。あなたはロシアの帝国主義に侵略された人々を糾合して、ロシアに革命を起こして社会主義の国を建設しようとしている。私は日本の自衛のためにロシアに対する戦争を支援しようとしている。どちらもペテルブルクの政府を倒すという目的では同じではありませんか?他人がどういおうと、革命が成功すれは、それは民衆の幸福であり、レーニンの名は民衆の組織者として永久に残るでしょう。しかし、小さな道徳論にとらわれて失敗すれば、レーニンの名は忘れられる。

君は祖国を裏切ることは、革命の同志やロシア人に具合が悪いというようなことをいう。しかし、君はロシア人ではない。タタール人ではないのか?タタール人の君がロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに、日本の力を借りたからといって、何が裏切りなのかね? 大体、いまのロシアのはとんど全部が、十六世紀までは君たちタタール人の国だった。君たちはいうまでもなく、かのチンギスバン大王子孫なのだ。それが十五世紀の終わりにロシア人のイワン三世モスクワ大公国を立て、イワン四世(雷帝)のとき、全ロシアのツァー(皇帝)を宣言するころからタタール人に対する圧迫が激しくなり、やがて各地で敗北したタタール人は、母国のモンゴルに帰り、一部がカザフを中心とする一帯に残ったのだ‥…。私のロシア史の認識は間違っているかね? レーニン君、君がどこかの国の援助を受けて、イワン雷帝の子孫であるロシアの宮廷を倒しても、それは当然の権利回復であって、なんら道義にもとるものではない。そうではないかね? レーニン君。

どうです? 必要なだけの資金を回しましょう。返却は無用です。見返りの代償は不要、私の方は政府の、いや参謀本部の作戦用の機密費です。
謀略は秘密作戦です。そう秘密です。秘密に君に金を融通して、秘密にロマノフの背中を衝くのです。もちろん、一枚領収書も、誓約書もいりません。いかがですか? 秘密ということは、全面的に相手を信頼するということです。男と男の約束です。私は絶対に金のことは口外しません。もちろん、必要に応じて参謀本部に報告しますが、当然、参謀本部も自国の機密費の内容を公開するなどというばかなことはやらないでしょう。」
-------------------------

まずは、古い考えを捨てろという、よくある一般論から入って、お互いにお互いを必要としている、目的は同じだ!という現実論に始まり、民衆の幸福、レーニンの名誉というタテマエと本音を並べ、それでも、レーニンが納得してないとみるや、一転、日本人が知るはずもないようなタタール人にとってのロシア史観を語り、チンギスハンの名前を出して奮い立たせ、ここで、おもむろに金の話を出し、最後に、ばれないことを言って聞かせて安心させる・・・。
一切の無駄を省いた・・・、それでいながら、言うべき事を言うべき順番で述べ、掘り下げるべき所は余すことなく掘り下げて語った、惚れ惚れするような見事なトークだと思います。

日露戦争後陸軍内部では、「明石一人で陸軍10個師団に相当した。」と言われたそうですが、司馬遼太郞氏に言わせると、「10個師団どころか、日本軍全体相当したのではないか・・・。」となるようですが、その点では、私も概ね、司馬史観に同意です。
あ、誤解のないように申し上げておきますと、無論、明石独りでロシアに勝てた・・・などとは露ほどにも思っていませんよ。
誰より、明石本人が思ってなかったのではないでしょうか?

即ち、日露戦争ほどの近代戦になってくれば、桶狭間織田信長今川義元を討ち取ったようなものとは、戦争自体の質が同じ戦争とは言えないほどにまるで違っており、つまり、近代国家における戦争とは、個人の能力の優劣で決まるものではなく、国家という大きな組織同士の「総合戦略」の優劣でこそ決まってくるものだと思うからです。
そして、先述しました日本側の6つの戦略というものこそが、それをよく体現していると思いますが、(ただ、このうちの殆どが、当初から成算があってのことではなかった・・・という点こそが、この戦争の勝利が如何に際どいものであったを現しているのでしょう。)一面で、これらは、それぞれがそれぞれで健闘しているうちに、有機的相乗効果を増していったが故の勝利であったと言え、即ち、どれか一つでも欠けてはならない勝利であったともいえるでしょう・・・。
具体的に言うならば、満州義軍の存在や明石の謀略工作が軍事的成功を助け、軍事的勝利が資金調達を容易にし、資金調達がまた軍事的成功に繋がり、それがアメリカ和平仲介意欲を高め、それがまた、「いけるぞ!」ということになって明石の革命工作も盛り上がる・・・といった具合に・・・。

明日に続きます。
                               平太独白
by heitaroh | 2006-04-19 08:27 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

遅れてきた志士、筑前福岡藩士 明石元二郎 前編。
親愛なるアッティクスへ

日露戦争時、日本が打った対露戦略の中でも、もっとも大きな・・・と言っても過言ではない役割を果たしていたのが明石元二郎です。
明石元二郎は、元治元年(1864年)、筑前福岡藩士・明石助九郎貞儀の次男として福岡天神町に生誕しています。
明石家は1300石の大身であったものの、父、貞儀が29歳の若さで自刃して果てたところから、次第に家産を食い潰し、さらには、元二郎8歳のとき、福岡藩そのものが贋札事件を起こしお取り潰しとなったことから、一家の生活はますます困窮を極め、家は人手に渡り、遂には、母は長男、と次男、元二郎を連れて親戚の世話になることを余儀なくされます。
そんな中でも、母は、二人の息子への教導には余念が無く、針仕事の傍ら、武士としての心構えから論語の素読まで教え込んだとか。

やがて、成長した元二郎少年は、大器の片鱗を見せ始めます。
まず、余りに悪さをするために親戚から土蔵の中に閉じこめられたときのこと。
放り込んだものの、泣き叫ぶ声も聞こえず、余りにも静かなことから、逆に心配になった親戚が土蔵を開けて見れば、元二郎少年は、別に悪びれる様子もなく平然と端座していた・・・と。
また、元二郎の生涯を通してのスタイルととして、頭脳は極めて明晰でありながら、風釆ははなはだ不潔・・・というものがありますが、(後年、それなりの地位についたときも、手鼻をかんで、そのまま、フロックコートのポケットの中になすりつけたなどという話もあるくらいで・・・(笑)。)当然、少年時代も、いつも鼻水や、よだれを垂らしていたそうで、それでいながら、学校では常に成績は一位・・・。
しかも、その一位は並はずれて一位だったそうで、ここでも、元二郎少年は大器を思わせるエピソードを残しています。

元二郎の神童ぶりを聞きつけた当時の県令、渡邉 清が視察に来るということになったときのこと、家とて満足にない明石家にて待つわけにもいかず、代わりに場所を提供した家では、「県令様が来られる!」ということで、家の畳をすべて新しく張り替えて待ったそうです。
元二郎少年は、県令を前に、大人たちの視線にもいささかも臆することなく「精神」の二字を大書・・・。
ところが、あまりに勢いよく書いてしまったもので、「神」の字の最後の縦棒が紙面中に入りきらないことになってしまったとか・・・。
しかし、元二郎少年は周囲が「あっ!」と息を呑む中、そのまま、躊躇することなく平然と青畳の上へ墨痕鮮やかに書き通したとか・・・。
この少年の気宇の壮大さを見て取った渡邉県令は、その後、是非、養子に貰い受けたいと申し入れたと言いますが、母は決して応じることはなかったそうです・・・。

その後、中学を経て、1889年に陸軍大学校を卒業、フランス公使館付陸軍武官
ロシア公使館付陸軍武官を歴任、1904年、日露戦争が勃発すると、38歳明石大佐は、当時、ロシアで澎湃として起こりつつあった革命運動を支援することを提案。
当初、参謀本部は、あまり、乗り気ではなかったと言いますが、渋々、当時の金額で100万円工作資金として渡したところ、内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件戦艦ポチョムキン号の叛乱等を起こし、 ロシア国内の政情不安醸成することに成功。
これにより、事実上の戦争継続が困難になったロシア政府は、講和交渉のテーブルに着くことを余儀なくされますが、その際、講和交渉に応じる条件として、真っ先にロシアが呈示したのが、「まず、アカシの工作をやめさせること。」だったと言いますから、如何に超大国ロシアがアカシ1人に追い詰められていたかが見て取れると思います。

中編、後編へと続きます。
                             平太独白
by heitaroh | 2006-04-18 08:39 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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