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博多駅前も!福岡市編入から100年!!
今回はローカルネタですみません。
どうしても、ちょっと言っておきたいことがあり。

故・長谷川町子さんが、福岡市の海岸を散歩中に漫画「サザエさん」着想を得たことは地元ではよく知られた話です。
そのため、サザエさんとマスオさんのお見合いの席は、福岡市天神の岩田屋デパート(↓)の食堂。(あくまで、食堂。当時はレストランなどという洒落た言葉は一般的ではありませんでした。)
博多駅前も!福岡市編入から100年!!_e0027240_19133571.jpg
満席で離れ離れの席になったマスオさんが隣の人から、「あなた、一人で来たの?」と言われ、「実はお見合いでして・・・」と言ったら、食堂中に鳴り響くような声で、「この方たち、お見合いですってよ!席を詰めて隣を空けてあげて!」と言われ、恥ずかしさのあまり、早々に結婚を決めた・・・みたいな話だったと思います(笑)。

博多駅前も!福岡市編入から100年!!_e0027240_19094913.jpg
↑現在の百道浜。中央向こうのビルの陰に福岡ドームがあります。当然、長谷川女史が住んでた時代には、影も形も・・・どころか、そもそも、陸地自体がありませんでした。つまり、ここは全部、埋め立て地で、昭和の頃までは、迂闊に迷い込むと、すべて、海で行き止まり。バックして戻ってこなければなりませんでした。)

博多駅前も!福岡市編入から100年!!_e0027240_19095994.jpg
(↑福岡タワー。長谷川女史が着想を練った海を埋め立てて造った所にできたサザエさん通り。泉下の女史、何思う?まあ、私はいかにも福岡人らしい話なので、何も驚きませんけどね(笑)。)

で、先般、福岡市早良区の西新地区一帯が、今年で福岡市編入100年を記念して、サザエさんの博多人形2体を早良区に贈ったというニュースをやってました。
なぜ、こんなことを言うのか。
実は、当時の早良郡西新町と、うちの博多駅前を包含する筑紫郡住吉町が福岡市に併合されたのは、ともに、同じ大正11年なんですよ。
(住吉町の方が半年ほど遅かったと記憶。)
なのに、西新地区と違い、住吉地区は何もやらない・・・どころか、たぶん、100年になったことすら、大多数の人が知らない・・・。
まだ少し時間があるんだから、こっちも、是非、何かやってほしい!

西新地区と違い、現・福岡市博多区住吉を中心とする住吉地区は、ドーナツ化現象の影響で、人が減り・・・と言いたいところですが、背景にはハイソな「福岡」の西新と、下町の「博多」の住吉の差があるような気がしますが、いずれにしても、なかな西新地区のようなまとまりがない。
であれば、ここは我が博多駅前がリーダーシップをとって・・・と思うのですが、あいにく、私ではまったく発言力がない。
コロナ前なら、まだ、そういう誰かと会う機会もあったのでしょうが、コロナ後はとんと・・・。
博多駅前も!福岡市編入から100年!!_e0027240_14595372.jpg
(↑100年には及びませんが、ほんの60年ほど前のサービスカットです。少し前ですが、テレビに出ました。
👍高貴な生い立ちは、もはや隠しようがありません😅ちなみに、後ろにうっすらと見えているのは、竣工間もない前博多駅です。)

ということで、どなたか偉い人、「博多駅前福岡市編入100年記念」を御願いします!
                            平太独白

# by heitaroh | 2022-07-06 07:37 | 地域 | Trackback | Comments(2)

私的壇ノ浦の戦い考察その3 源氏軍海上基地 満珠・干珠
前回の続きです。

彦島に、まとまった兵を陸揚げできる浜(今、気づきましたが、「浜」って、サンズイに兵と書くんですね。元々、兵を上陸させる地点という意味だったとか?)が、どの程度あったのかはわかりませんが、平家とすれば、屋島で、同様の条件下で、源義経に奇襲され、敗退した苦い記憶がありますし、ましてや、兵力が激減した現状では、到底、島に籠って迎え撃とうという気力はなかったでしょうね。

私的壇ノ浦の戦い考察その3 源氏軍海上基地 満珠・干珠_e0027240_18350429.jpg
(↑月夜の下関港から見る対岸九州側。もちろん、当時はこんな灯りはなかったでしょうが、滅亡までの日々、平家の人々はどんな思いで、この景を見たのでしょう。)

その上で、前回、源氏方が、どこから船出してきたのか?は謎ですが・・・と申し上げましたよね。
私的壇ノ浦の戦い考察その3 源氏軍海上基地 満珠・干珠_e0027240_10405561.jpg
上図の右上、一番奥まった所にちょうど折れ曲がったような所ありますが、ここは河口で、おそらく、当時の海岸線はもっと奥まった所にあったとは思います。
が、それでも、しっかり、山塊があるので、仮に当時は島だったとしても、それほど極端に内陸でもなかったでしょう。
したがって、パッと見はそこのような気もしますが、おそらく、実際には少しでも航続距離を少なくするため、中央ちょっと上の長府港辺りから乗船したのではないでしょうか。

私的壇ノ浦の戦い考察その3 源氏軍海上基地 満珠・干珠_e0027240_18342180.jpg
というのは、戦国期、瀬戸内海を東上した毛利の水軍は、播磨国(現・兵庫県英賀(↑かつては浜でした。)の地に上陸したものの、船酔いで動けなくなっていたところを、黒田官兵衛(如水)に奇襲を受け、一敗地に塗れているからです。
もちろん、それよりは航行距離も短いとはいえ、南船北馬ならぬ、西船東馬で、海戦になれた平家方と違い、源氏武者は海戦にはまったく不慣れで、(そう考えれば、平家の武士はともかく、都落ちしてきた安徳天皇やそれに付き従う女官たちなどは、一直線に九州鹿島城へ・・・というわけにはいかなかったでしょうね。安徳天皇も「もう、船は嫌じゃ」と駄々をこねたかと。)そこで、出てくるのが、満珠島干珠島という、壇ノ浦に浮かぶ二つの小島の存在です。
私的壇ノ浦の戦い考察その3 源氏軍海上基地 満珠・干珠_e0027240_17280424.jpg
(↑満珠島・干珠島の上空から見た関門海峡方向。中央上、赤いポインターが根緒城。ちなみに、満珠・干珠というのは、一般に左が満珠、右が干珠と称されているようですが、厳密にはどちらがどちらとは決まっていないようで、したがって、ここでは海中に浮かぶ二つの小島のうち、左側にまとめて、満珠島・干珠島と記載してあります。)
                         平太独白

# by heitaroh | 2022-06-23 18:41 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

私的壇ノ浦の戦い考察 その2 平家新首都・九州山鹿城
前回の続きです。

まず、当時、なぜ、平家彦島にいたか・・・ですが、この時点で、既に、源氏軍総司令官・源範頼に、北部九州側の拠点を攻略されており、そのため、彦島が、日本で唯一、平家が地面を踏める場所となっていたということがあります。
つまり、もう、「詰んだ将棋」で、勝負はついていたということですね。

私的壇ノ浦の戦い考察 その2 平家新首都・九州山鹿城_e0027240_18314977.jpg
(↑平家方北部九州拠点、山鹿城よりの景。かつては遠賀川の河口に睨みを利かせた城も、今では海岸線も伸び、往時の雰囲気を感じさせるのは、辛うじて、この一枚のみ。城主・山鹿秀遠は、寿永2年(1183年)の平家の都落ちの際は、安徳天皇を始め平家一門を迎え入れ、範頼に攻略された後は、彦島へ扈従最後まで平家に忠節を尽くし、壇ノ浦の戦いでは平家方の主力として奮戦しています。

そういう状況であれば、おそらく、彦島に逼塞を余儀なくされた時点で、清盛以来の郎党も平家を見限って逃亡する者が相次いでいたと思われ、兵力はわずかなものとなっていたはず。
つまり、この時点で、もう、両軍には致命的なまでの兵力差が生じており、そのことは、平家が島全体での防衛を諦め、海に討って出ることを前提に根緒城を築いたことが、何より、雄弁に物語っているのでしょう。

で、私が疑問に思うのはこの点で、まず、なぜ、平家は壇之浦に討って出たか・・・です。
結論から言えば、やけになっていたとしか思えません。
兵力が乏しく、到底、彦島での防戦は無理と思ったとしても、再び、鹿島城へ戻るという選択肢もあったでしょう。

私的壇ノ浦の戦い考察 その2 平家新首都・九州山鹿城_e0027240_12283867.jpg
(↑鹿島城よりの景。今は水田が広がっていますが、往時はここは入江だったと思います。)

大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」でもわかるように、源氏もそうそう一枚岩でもなく、御家人たちをまとめていくのは大変だったようですね。
そのことは、兄、源頼朝以上に、現場にいる、範頼、義経兄弟の方が身に染みてわかっていたはずです。
さっさと決戦を挑んで、鎌倉へ凱旋しないと、軍が崩壊する・・・と。
もちろん、鹿島城にも抑えの兵力は置いているでしょうが、来るかどうかもわからない空き城に、早く帰って恩賞に預かりたい坂東武者を張り付けておくことはなかなか難しい相談で、おそらく、形ばかりの兵力しかなかったでしょう。
そして、戦果もなく、関門海峡を船に揺られて行ったり来たりするだけの状態が続けば、不満が高まることは有り得ることで、何より、渡海のための船がそう都合よく調達できなかったでしょう。

ただ、一方の平家方は女子供も同伴の、「武田勝頼天目山的」な状態であれば、再び、鹿島城へ!と言ったところで、「もう、よろし。皆で、大相国(平清盛)様の元へ参りましょ」となったのではないかと。
そう考えれば、平家は討って出るにしても、なぜ、わざわざ、関門海峡を越えて、壇ノ浦へ進撃したのか?ということの説明も付きます。
関門海峡という所は、一見すると川としか思えないほどに狭く、従って、流れは速く、かつ、複雑で、今も、水先案内人が乗船しないと航行できないような難所で、そのことは、少し前に、自衛隊の軍艦がどこかの船と衝突して、物凄い炎が上がったことでもわかるでしょう。

私的壇ノ浦の戦い考察 その2 平家新首都・九州山鹿城_e0027240_12122363.jpg
(↑門司側旧帝国軍砲台跡より見る関門海峡。)

であれば、平家としては、なおさら、大軍を狭隘地に誘いこみ、大軍の利点を生かせないようにして戦闘するのが兵法の理。
ましてや、敵は海戦に不慣れな源氏軍であり、複雑で早い潮流の関門海峡であれば、源氏軍は船にしがみついているだけで精いっぱいだったはず。

考えられるのは、範頼率いる源氏陸上部隊からの遠矢を避けるために、陸から離れた部分、つまり、海峡が広くなった部分で戦う必要があったということでしょう。
が、それには、範頼が壇ノ浦に来ているということを平家が知っている必要があります。
電信設備もない時代、リアルタイムで源氏の部隊の正確な位置を知ることは、平家どころか、別動隊を率いる源義経にも、不可能だったはずで、(陸上を源氏に押さえられている以上、手旗信号や狼煙も不可能だったでしょう。)それどころか、義経は、不仲の兄、範頼に作戦意図を伝えてきたようにも思えません。
範頼軍は彦島の対岸にいて、平家水軍が関門海峡側に向けて出撃するのを見て、東に移動したとも考えられますが、大部隊の移動はそう簡単ではなく、もし、海峡の手前で平家軍がUターンして戻ってきたら、源氏方はもうこれだけで大混乱に陥ったはずで、少し無理があるような気がします。
私的壇ノ浦の戦い考察 その2 平家新首都・九州山鹿城_e0027240_18035164.jpg
(↑根緒城よりの景。現地は一般には開放されておらず、グーグルマップからの景。いやはや、便利になったものです。で、手前は三菱造船所の埋め立て地。左のアーム二本の間に見えているのが関門海峡。ここからだと、そこに源氏水軍が集結しているのが見えたと思われ、逆に、右手から伸びてきた九州側山塊の陰になって、範頼軍の壇ノ浦着陣は見えないということになります。ちなみに、右の海中にある島が海の難所・巌流島

おそらく、範頼軍は、鹿島城から移動してきて、たまたまそこにいたのだと思います。
あるいは、このときの水軍の主体は豊後(大分県)だったとも言いますから、本州側へ渡海するために、ここに集結していたのかもしれません。
で、それを見た義経が、ここを決戦場にしようと思ったということではなかったかと。
範頼としては、ここまで来て、義経が渡海のための船を寄こさず、その船を使って、海上決戦を挑もうとしているスタンドプレーに困惑したでしょう。

次回に続く。
                平太独白

# by heitaroh | 2022-06-16 07:33 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

私的壇ノ浦の戦い考察 その1 平家彦島海軍基地・根緒城
大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」壇ノ浦の戦いがありましたよね。
で、私も、先般、関門海峡無料クルーズに参加したこともあり、改めて、この合戦について私なりに考えてみようと思い立ちました。
で、「壇ノ浦の戦い」とは、言うまでもなく、関門海峡付近で行われた源平最後の合戦であると同時に、関ケ原、鳥羽伏見と並んで日本三大会戦の一つに数えられる海戦です。

私的壇ノ浦の戦い考察 その1 平家彦島海軍基地・根緒城_e0027240_20311232.jpg

(↑平家側より見た関門海峡。二つの島の辺りが、巷間、言われる源氏方船団付近。)

ただ、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には、元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関(現山口県下関市)壇ノ浦の海上で、三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け、山鹿秀遠および松浦党らを将となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き、戦いは終わった」とあるだけで、つまり、具体的なことは何もわかっていないんですね。


私的壇ノ浦の戦い考察 その1 平家彦島海軍基地・根緒城_e0027240_20180863.jpg
(↑旧帝国軍の砲台跡より見下ろす壇之浦戦場付近。往時、ここには多くのギャラリーがつめかけていたことでしょう。

で、その後、大正時代になって、東大の教授が「当初、潮の流れに乗って攻め寄せた平家軍が優勢であったが、潮が反対に転じたことから、源氏が優勢となり、勝負が決した」という潮流説を提唱したことから、これが主流となったわけですが、ただ、これは私も、常々、疑問だったんですよ。
「潮の勢いに乗ったところで、突っ込むスピードが速くなるだけ。それだけでは、必ずしも、有利と言えないんじゃないの?」と。
ましてや、船上の盾に隠れながら矢を射かけ合う戦闘では、距離が縮まるだけの話。
で、先日、NHKで「源義経が平家軍船の操舵手を射殺したことから、漕ぎ手を失った平家方軍船は複雑な潮流に流されて岸に近づき、源範頼率いる源氏方陸上部隊の矢の餌食となった」という説が出てましたが、私もまあ、これで間違いないんだろうなとは思いました。

ただ、それでも、まだ、わからないことがたくさんあるんですよ。
それを語るには、まず、平家海軍基地・彦島がどういう所かを見ていく必要があります。
彦島は今は橋がかかって陸続きで行けますが、イギリスが「貸せ」と言ったのを、高杉晋作がはねつけたという話でもわかるように、元々は島なんですね。

で、googleマップと明治頃の古地図をにらめっこしながら作ったのが、これ(↓青い線で囲ったのが明治頃?の海岸線)。
私的壇ノ浦の戦い考察 その1 平家彦島海軍基地・根緒城_e0027240_20090654.jpg
これを見ると、主に変わったのは下関側で、幸いなことに、島自体はあんまり変わってないんですね。
で、平家の城はこの島のどこにあったか?ですが、一応、中央付近、赤いポイントをつけているのが、清盛塚と呼ばれるところで、現地の説明板には、平知盛亡父・清盛の遺骨を砦と定めたこの丘陵の小高い場所に納骨し」とあります。
まあ、伝説以上のものではないので、そこに遺骨があるかどうかは別にして、少なくとも、平家の「砦」根緒城は位置的にはその記述の通りで間違いないと思います。
その根拠についてですが、まず、清盛塚から東に行った海中にあるのが、宮本武蔵vs佐々木小次郎で有名な巌流島で、ここは大正年間、航行する船舶の障害となるため、岩礁が爆破されましたが、それ以前はどこに瀬があるかわからない海の難所で、豊臣秀吉もここで座礁転覆し、あわやというところで毛利秀元によって救援されたほどでした。

次に、平家が海軍基地にするような所は、地形の変化はあったにせよ、今も何かしら、重要な施設に活用されているもので、私が着目したのが、三菱重工業(株)下関造船所
ここなら、巌流島の陰になり、沖合を行く船からは港の全貌を見られることはなく、迂闊に入ってこようものならたちまち座礁。
それらを勘案した上で、私が確信したのが、そのロケーション。
ここ(↓)からなら、狭い関門海峡の隙間を縫って、遮る物なくはるか向こうまで眺望が利くんですね。
(逆に言うと、ここ以外には関門海峡の向こうから押し寄せてくるであろう、敵の姿は見えないということ。これを見ると、なぜ、平家がここを拠点にしたかがよくわかります。
私的壇ノ浦の戦い考察 その1 平家彦島海軍基地・根緒城_e0027240_20091988.jpg
もちろん、そうは言っても、とんでもない距離ですから、果たして、見通しが利いたからと言って、見えたのか?となると少し疑問です。
ただ、今でもモンゴル人には視力25.0などという人がいると言いますから、今と違い、スマホもパソコンも見ない、毎日、水平線ばかり見ている彦島の漁師の中には根緒城から、遥か彼方の源氏の出撃が見えた人がいたのかもしれません。
その上で、源氏方が、どこから船出してきたのかは謎ですが、上の地図を見ると、右上、一番奥まった所にちょうど折れ曲がったように河口がありますので、パッと見はそこのような気もしますが、実際には少しでも航続距離を少なくするため、中央ちょっと上の長府港辺りから乗船したのではないかと思います。

でも、疑問は残ります。
まず、そもそも、なぜ、源氏はわざわざ船団を組んで押し寄せたのか。
不得手な海戦を挑まずとも、陸上から彦島を攻略した方が早かったのではないか?
また、平家もなぜ、要所である関門海峡の手前で待ち伏せずに、わざわざ、海峡の向こうに出て行ったのか?
それから・・・も含め、この続きは、また、いずれ次回。

             平家独白・・・ではなく、平太独白

# by heitaroh | 2022-06-02 07:57 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

「鎌倉殿の十三人」の菅田義経は白眉の大河ドラマ史上最高の義経!
大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」での菅田将暉くん演じる源義経、ついに、最期を遂げましたが、最後まで、白眉だったと思いますね。
おそらく、大河ドラマの義経史上、最高の義経だったと思います。
で、そこまで考えて、「はて、大河ドラマで印象に残る義経って誰がいたっけ?」と。

「鎌倉殿の十三人」の菅田義経は白眉の大河ドラマ史上最高の義経!_e0027240_15483434.jpg
(↑伝義経の兜。)

源頼朝「草燃える」での石坂浩二さんのイメージが強いんですが、このときの義経は確か、国広富之さん。正直、石坂頼朝に隠れてしまって、あんまり記憶に残っていません。
で、義経と言えば、初代の尾上菊五郎 (7代目)さんは正直、私も覚えていません。
(私の記憶にある最初の大河ドラマは「天と地と」からです。)
そうなると、やっぱ、昭和47年の新・平家物語」での志垣太郎さんかなぁ・・・と。

で、そこまでさかのぼったところで気が付きました。

そもそも、義経役は今回の菅田くんも含めて、わずかに7人しかいないんですね。

まあ、そもそも、源平時代自体、毎回、戦国と幕末ばかりだとマンネリになるので、他に挟むの無いしって感じで採りあげられてる観があり、したがって、元々、分母も小さいんでしょう。

「鎌倉殿の十三人」の菅田義経は白眉の大河ドラマ史上最高の義経!_e0027240_15500822.jpg
(↑伝義経の鎧。確かに、小柄なのですが、当時の人の体格を考えると、それほど小さくもないのかなと。義経が小柄ではなかったか、それとも、義経の物ではないか・・・でしょうか。)


で、「鎌倉殿の十三人」の義経で一つだけ思ったのが、鎌倉攻めの戦略を北条義時に開陳する場面。
あれ、「炎立つ」(1993)での野村宏伸くんも同じようなこと言ってましたが、何か伝承でもあるんですかね。
私は、当時、それを聞いて、「おいおい、そりゃないよ」と思いましたよ。
菅田義経も野村義経も、船で太平洋岸を南下し・・・というものでしたが、机上の空論以外の何ものでもなく、私は、明治2年(1869年)に、旧幕府軍艦が新政府軍艦隊を襲撃し、惨敗した宮古湾海戦を想起しました。
(このときも、旧幕府側艦隊は当初、3隻で襲撃の予定だったのが、暴風雨に巻き込まれ、結局、到着した1隻で襲撃を敢行。あっさり、敗北を喫しています。)

「鎌倉殿の十三人」の菅田義経は白眉の大河ドラマ史上最高の義経!_e0027240_15543228.jpg
ましてや、当時の操船技術では、絶対、無理。
確かに、義経は屋島の戦いの折、嵐の紀伊水道を渡った実績がありますが、それとは、距離も海洋も比べ物になりません。
1隻ならともかく、最低でも屋島同様、5隻150騎の船団が、石巻から出航したとして、房総半島を回って三浦半島沿いに北上し、鎌倉まで400km、屋島の10倍近い距離ですよ。
今でも、仙台~名古屋間のフェリーが24時間近くかかるみたいですから、単純に石巻~鎌倉は10時間。
仮に、ぎりぎりまで陸地を南下し、いわきから出航したとしても、250km、単純に6時間でしょうか。
(距離、時間は、かなり、ざっとした数字です。そもそも、仮定の話ですから、十分でしょう。)
これを親潮に逆らい、風力と人力で漕いでいくわけですから、途中、敵地に何泊しないといけないんだって話。
それどころか、実際には、まず、出た瞬間に親潮に流されて、三浦半島ならぬ、カムチャツカ半島行きでしょう。

もう一つ、野村義経も言ってましたが、「内応がある」って話。
いや、これも、いざとなれば「話が違う」なんてことはよくある話で、そもそも、こんなあやふやな話を前提に作戦を練る時点で凡将以下。
それ以前に、義経の特徴は軍事的才能にあるのであって、こういう調略の類は元々、計算にすら入っていなかったでしょう。
                         平太独白

# by heitaroh | 2022-05-23 07:54 | 音楽芸能 | Trackback | Comments(2)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。

by 池田平太郎
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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