太平記をスピンオフで歩く。 その4 「第二次多々良浜合戦」 福岡市東区

先日の続きです。

足利尊氏が敵の大軍を見て絶望した所はあまり見通しも良くなかったので、行き止まりとは書いてあったのですが、もう一段下の道に降りてみました。

ここは、高さは尊氏望見の場所より一段低くはなるのですが、目の前を遮るような物は無く、「穴場」かと思われるほど眺望が利きました。


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(↑まさしく、この建物が建ち並んだ部分に敵が充満していたのだと思うと、尊氏が絶望したというのもあながち、嘘でもないような。)

敵は二万騎といいますが、もし、純粋に戦闘要員だけが二万人いたとして、一人辺りの占有スペースを1㎡で計算すれば、単純に2kmx1km。

正面に対峙する形で出来るだけ展開させたとすれば横方向に2km、奥行き1km。

つまり、ほぼ、ここから見える風景の前半分はすべて敵で埋まっていたということになります。


で、この撮影ポイントですが、突き出した二本の山の尾根の上にあって、その尾根と尾根の間がUの字になっており(↓)、これって、自然の地形にしては出来すぎてるんですよね・・・、何だか出丸みたいで。

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でも、ここが城だったとは聞いたことが無いし、何より、尊氏が登ったときは決戦の直前であり、土木工事をする余裕なんて無かったはずです。

で、思い出しました。

多々良浜合戦は二度あったんだ・・・と。


第一次合戦で川を挟んで睨み合ったのが足利尊氏と菊池武敏であったのに対し、第二次合戦で対峙したのが大友宗麟毛利元就

ただ、大友と毛利の合戦と言いながら、実際には大友宗麟は実戦型の武将では無く、毛利元就はこの時、既に高齢であったため、実際に対峙したのは、それぞれ、立花道雪小早川隆景でしたが、両者ともに代理とは言え、音に聞こえた名将同士。

西の川中島」と言っても良い、上杉謙信、武田信玄にも劣らぬ激しい合戦が繰り広げられたようです。

もっとも、この戦いも川中島合戦と同じく、一回きりの決戦では無く、長期間に渡り、計18回の対陣があったと言われており、そのうち、激戦となったのが永禄121569518日の合戦だと言われています。


この戦いはそもそも、第一次と違い、在地領主同士の領土拡張戦争。

従ってその目的は、多々良川の領有ではなく、国際貿易港・博多の確保のための筑前奪取であり、そのためにまず目標となったのが要衝・立花山城の領有でした。

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(↑山頂付近より振り返る立花山。)


いわゆる、「目的はパリ、目標はフランス軍」ならぬ、「目的は博多、目標は立花山城」ですね。


次回に続きます。

                      平太独白


# by heitaroh | 2018-02-15 06:04 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

太平記をスピンオフで歩く。 その3 「多々良浜合戦」 福岡市東区

先日の続きです。


足利尊氏が見て、敵のあまりの大軍に絶望したといわれる風景はこの辺だろう・・・と思いつつ、そこを過ぎ、少し先の、台地が一番高くなっている辺りに来てみたところ・・・、見事に、「ビンゴ!」でした。

そこは、樹木が繁っていた関係で、あまり、見通しはよくありませんでしたが、ふと見ると、傍らの説明看板(↓)に、「ここです!」の記載が・・・。


e0027240_17513754.jpg
改めて、傍らの樹木の間から透かしてみると、こんな(↓)感じでした。

e0027240_19405345.jpg

ちょっと、わかりにくいですが、樹木が無ければ前回掲示した画像より、もっと見晴らしがいい風景が写っていたと思います。


で、ここを過ぎ、少し下に行くとこの看板(↓)が・・・。

e0027240_18084882.jpg

まったく存在は知られてませんが、しっかり、地元では尊氏が本陣とした所という認識はあったわけです。

ただ、私は逆から上がってきてしまったので、説明看板に出くわし、それから、この看板を見ましたが、こっちから上がってきてたら、説明看板の所には辿り着けなかったかもしれません。

台地の頂きには現在、ガスタンクのような物が建っているのですが、私が上がってきた方の遊歩道は多々良川の方向からすると裏側になり、そこから、タンクを回り込むような形で「行き止まり」と書いてある道があり、市内とはいえ、そう滅多に来る所じゃないからついでに覗いておこうと、そちらへ行ってみたところ・・・。


ということで、次回に続く。

乞うご期待!

                 平太独白


# by heitaroh | 2018-02-01 07:47 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

太平記をスピンオフで歩く。 その2 「寒風多々良川」 福岡市東区
先日の続きです。

建武3年(1336)、後醍醐天皇建武の新政から離反した足利尊氏は、楠木正成北畠顕家らと戦って敗れ、再興を期して九州へ落ちていったわけですが、九州では足利方に味方していた肥前国守護の少弐頼尚らに迎えられます。
少弐氏はその後の戦国乱世が進行するうちに滅亡したので、今ではあまり知る人も少ないと思いますが、当時は元寇などでも奮戦し、島津、大友と並ぶ、九州御三家大名の一つに数えられるほどの勢家でした。
(元々、少弐とは「次官」という意味で、鎌倉幕府が成立すると外様の御家人・武藤氏が大宰府の少弐に任じられ、以後、少弐を名乗りとしたと。)
その少弐らに先導され、筑前に入った尊氏ですが、待ち構えていたのは、宮方に味方した肥後国の菊池武敏をはじめ、筑前国の秋月種道、肥後国の阿蘇惟直、筑後国の蒲池武久、星野家能ら九州の諸豪族の大半2万騎以上。
菊池武敏に主導された宮方勢は、まず、少弐氏の本拠・大宰府を襲撃し、頼尚の父で菊地の長年の宿敵・少弐貞経を自害させます。

一方、足利勢は、宗像大社(現福岡県宗像市)に戦勝祈願した後、筑前国の多々良浜(福岡市東区)に布陣した宮方と向かい合うことになります。


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(↑寒風水面を渡る多々良川。)

このとき、足利軍は約2千騎(太平記によると300)に過ぎず、尊氏は敵の大軍を見て戦意喪失、「切腹する」と言ったと伝わります。

この話がどこまで本当なのかはわかりませんが、過日、時間が空いた際に、「多々良浜古戦場の碑」を見て、せっかくだからすぐ横を流れる多々良川まで行くか・・・と思い、行ってみたのですが、そこに飛び込んできたのがこの(↓)風景。

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以前から、「尊氏が多々良浜合戦を前に陣を敷いたとすればこの丘だろうな」と思っていたので、一度、行きかけたのですが、当時はカーナビも無い時代、ちょっと車では入っていきづらかったこともあって、今までちゃんと行かないままでした

なので、ちょうど時間はあるし、車はないし、ちょっと行ってみるかと。

で、この丘、画像では大したことないように見えるかもしれませんが、結構、高さがあり、坂を登りつつ、尊氏が眺めたとすればこの辺りだろう・・・と見た風景がこれ(↓)。

e0027240_12325534.jpg

(川面は見えませんが、中央に走っている都市高速の手前下が多々良川です。)


この辺りは川の河口ですから、当時は、割とすぐ下まで潟と呼ばれる湿地帯が来ていたのでは無いでしょうか。

木立の隙間から見える風景は、なるほど、意外に眺めが良いなと。

腹を切ると言ったかどうかは別にして、おそらく、尊氏がここへ登ってきて敵陣を俯瞰したのは間違いないでしょう。

とすれば、この向こう、川の向こう側の平地一杯に敵兵が充満しているわけで、こちらは満足な武装も無い・・・。

尊氏が「もはやこれまで」と思ったのも無理は無いかと。


で、尊氏の実弟、足利直義はこれを押しとどめ、自ら、奮戦して菊池軍を撃破。

これにより、九州のほぼ全域を掌握した尊氏は捲土重来で東上し、湊川の戦いで楠木正成を敗死に追い込み、室町幕府を成立に漕ぎ着けたと。

ただ、これを押しとどめたのは傍らに居た少弐頼尚だったという話もあり、もし、そういう話があったとすれば、こっちのほうが本当で、直義はそれに同調したというところではなかったでしょうか。

頼尚からすれば、既に父は殺されているわけで、復仇の念に燃えていたでしょう。

次回に続く。


                         平太独白


# by heitaroh | 2018-01-26 19:25 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

太平記をスピンオフで歩く。 その1 「多々良浜古戦場の碑」 福岡市東区
今、せっかくアップしたのですが、なぜか、消えました。
ばかばかしくてやってらんないので、さわりだけ書いてみます。

先日、車を修理に出したところ、「完成するまで、3時間ほどどこかで時間を潰してきてくれ」と言われたので、やむなく、周囲の地図を見ていると、「多々良浜古戦場の碑」という文字が。
さらに、近くには「兜塚」という文字も見える・・・。
すぐ近くには、多々良川という川が流れており、ここで、南北朝時代に足利尊氏が菊池武敏らを破った「多々良浜合戦」が行われたことは知っていましたので、もしや・・・と思い、行ってみました。

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(↑多々良浜合戦の戦死者を祀った兜塚。)

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(↑一方、こちらは「多々良浜古戦場の碑」。何か、古戦場の碑ではなく、国体か何かの記念碑のような。)

e0027240_19374182.jpg
(↑でも、表題を見ると、「多々良潟の碑」とあり、「必ずしも、古戦場ということにはしてないんだ」と思ったけど、下の説明板を見ると、しっかり、「古戦場の碑だ」と書かれている。なーんか、作っている途中で、「そぐわない」とかいう意見が出て、こんな玉虫色のことになったんじゃないの?って気が。)

で、まず、戦いその物について、簡単に触れておきますと、この戦いは、建武3年(1336)、後醍醐天皇建武の新政から離反した足利尊氏楠木正成北畠顕家らに敗れた際、再興を賭して九州に下り、迎え撃った肥後国の菊池武敏、阿蘇惟直ら2万の軍と激突。

足利軍は約2千騎(太平記によると300)に過ぎず、尊氏は敵の大軍を見て戦意喪失。

切腹すると言ったが、尊氏の実弟、足利直義はこれを押しとどめ、自ら、奮戦して菊池軍を撃破。

結果、九州のほぼ全域を掌握した尊氏は再び、体勢を整え東上、摂津国湊川の戦いで楠木正成を破り、室町幕府を成立させた・・・と。

つまり、日本史の大転換を果たしたという意味で、極めて、エポックメイキングな戦いなのですが、これを詳述した物は殆ど見た記憶がなく。

おそらく、詳しいことはわからないのではないでしょうか。

ということで、実際に自分の足で行ってきたわけですが、疲れましたので、また後日に続くの巻。

もう消えないよな・・・。

                           平太独白


# by heitaroh | 2018-01-20 07:35 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

カヌー選手による薬物混入は明治では水銀!
カヌーの選手が先輩からドーピング薬入れられたって話ですが、私は飲む方も飲む方だけど、良心が咎める方も咎める方で、まあ、いかにも今の時代らしいなという気がしました。
で、こんなこと考えるのは私だけかと思っていたら、しっかり、被害者側の意識の低さを指摘する声もあるとか。

男子陸上競技で五輪出場経験者の為末大さんによると、誰かから渡された飲み物は飲むな。ペットボトルはかならず開けた時に音がするか確かめろと言われた」と。

これを「スポーツの世界にあるまじき」などと思うのは、豊かさに慣れきった現代日本人ならではかと。

明治期の記録を読んでいると、謡曲だったかの世界では、ライバルの美声を潰すために、お茶に水銀を入れるのが横行していたと。
事実、それで、せっかくの美声がダメになって消えていった人がたくさんいたとか。
そのため、出された飲み物に軽々に手を付けることはなく、みんな、絶対に自宅から持ってきたお茶などを飲んだそうで、楽屋でも、当然、そこら辺に軽々しく置いておくなどということはなく、弟子や身内などの信用できる人に監理させていたとか。
これが、「プロ意識」ですよ。

この点は、昔は競争社会ではどこでもあったことなんじゃないでしょうか。
その背景にあって、見逃せない要因の一つが、「貧困」なのだろうと思います。

かつて、西鉄ライオンズの大投手・稲尾和久氏は、入団当初、打席でデッドボールを辛うじてよけると、自軍ベンチから「当たれ!」という声が聞こえたと。
当初は、「当たってでも塁に出ろ」という激励の声かと思っていたら、そうではなく、本当に「当たれ!」で、「ボールが当たって、あいつが怪我すれば、俺が試合に出られる」という意味だったとか。

稲尾さんが入団したのが昭和31年ですから、まだ、戦後11年。

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「もはや戦後ではない」との言葉が白書に載った年ですが、人々の生活は本当に苦しく、同じ西鉄の主砲・中西太選手は行商でリヤカーを引く母に少しでも楽をさせたいと思ってプロ入りしたというし、毎日オリオンズの榎本喜八選手は穴が空いた屋根から室内に霜が降り、寝ていた祖母の涙が凍っているのを見て、祖母を助けたいと思ったと。
他の選手も、おそらく、多かれ少なかれ似たような境遇だったのでしょう。
だからこそ、巨人の川上哲治選手のように、チームの打撃練習時間の大半を一人で使ったという話も出てくるわけで。

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つまり、誰もが生きるために必死で、他人を押しのけて取って代わることに何の疑問も持たなかった・・・と。

ただ、問題は、そんな昔のこと・・・などと言うのは現代日本人だけだということ。
世界の大半ではまだ、昭和の日本人と同じような環境で生きている人たちがたくさんいるわけで、そういう環境からオリンピックに出場してきた連中と戦うのに、「まさか、薬を入れた水を飲まされるなんて」とか言っている方が甘いわけです。
昔なら、「水銀じゃなくて良かったですね」・・・と声を掛けられたでしょうね。
                       平太独白

# by heitaroh | 2018-01-12 19:41 | スポーツ | Trackback | Comments(2)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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