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「西郷どん」にみる主人公中心史観の弊は必要なのかの疑問
今年の大河ドラマ「西郷どん」
ちまたでは、「言葉がわからない」などいろいろと不評もあるようですが、私的には結構、面白かったですね。
今世紀になってからの大河ドラマでは一番面白かったかも。
ただ、「面白かった」という過去形になっているように、後半になって何だかなあって感じになってきました。
まあ、一橋慶喜を悪者にするのもドラマの演出上仕方ないかなぁと思いますが、島津久光はすっかりバカ殿扱いですし・・・。
何より、見ててひっかかるのが、「西郷・大久保」と並び立つ両巨塔のもう一人、大久保利通まで低く貶めるのはいかがなものかと。

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西郷が得意とした単身、敵地へ乗り込んでの体当たり交渉。
西郷はこれを朝鮮でやろうとして征韓論政変に繋がるのですが(ていうか、このままだと征韓論政変も西郷の主張が正しかったということになるのでは?)、しかしこれが出来たのはやはり、「万一、斃れても後には大久保がいる」という安心感があったからではないでしょうか。
リリーフがしっかりしていいればこそ先発も安心して全力投球が出来る。
つまり、大久保の実力を誰より認めていたのが西郷ではなかったかと。
そのことは維新後の両者の足跡を見れば、何より雄弁に語っているように思います。

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(↑島津久光という人物は必ずしも暗君というわけではなかったでしょうが、どうにも舞台運に恵まれない人物であったことだけは間違いないでしょうね。名君の兄と比べられ、さらにその流れに連なる不仲の西郷隆盛が明治維新の立役者となったがために、「賢兄愚弟の田舎者」の構図が出来てしまった・・・と。)

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日本に総理大臣という制度ができる前なので、大久保を総理大臣に数えることはできませんが、日本に「政府」というものが確立してい以降、最初にその舵取りを担ったのが大久保であったことを考えれば、大久保こそ、日本で最初にして最高の「初代宰相」だったと思っています。
                      平太独白

by heitaroh | 2018-08-21 08:13 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

太平記をスピンオフで歩く。 その8 「兵どもが夢の跡」 福岡市東区

先日からの続きです。

実はすっかり忘れてました。


松崎台地に置いて、敵の大軍を目の前にした足利方。

自軍はとかえりみれば、寡兵は言うに及ばず、満足な武装すらしていない・・・。

「自害する」という主将・足利尊氏を説得し、とりあえず、自害は思いとどまらせたものの、それでも、尊氏を出陣させるまでには至らず、「とりあえず、ここで見ておいてください」で実弟・足利直義少弐頼尚ら一部の部下だけで出撃。

ずらりと対岸に布陣した菊池武敏率いる宮方と交戦すべく、川を渡ろうと押し出したと。


「断固として血を流すことを辞さない者にはすべてが敗れる」とのプロイセンの参謀、クラウゼヴィッツの言ですが、本来、先に川を渡るのは大軍を有する宮方でなければならないのに、足利方は寡兵で、かつ、満足な武装すらしていないのに川を押し渡ってくる。

宮方の将兵らは正直、感動すらしたのではないでしょうか。

上杉謙信前田利家が、敵に囲まれ、落城寸前の味方の城へ単身入城した際には、敵は誰も手出しすることなくこれを見送ったと言いますが、命のやりとりをする戦場では、こういう群を抜いた勇気には誰もが問答無用で感動するもののようです。

ある意味、勝敗の行方は、足利方の馬が川に乗り入れた瞬間に決まったと言っても良いのでは無いかと。


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(↑立花山山頂からの景。第一次と第二次、ここでは戦場絵巻が繰り広げられていた。)


一説によると、強風により、砂塵が宮方へ吹きつけたと言う話もありますが、運も実力のうち。

砂塵が吹いたから渡河しようということではなく、敢然として渡河しようとした足利方に運も味方したということだったのでしょう。

現在の一帯の気候風土を見る限り、砂塵が舞うような感じには思えません。

まあ、今は護岸とアスファルトに覆われていますから、往時と重ねるのは無理があるのでしょうが、あるいは、その実は攻撃を命じられた宮方将兵のサボタージュの口実だったのかもしれません。


足利方は、多々良川を渡り、敵の大軍が見守る中、敵前に上陸したわけですが、しかし、有象無象に戦意は無いと言っても、さすがに敵主力である菊池隊は戦意旺盛で敢然と反撃に討って出ます。

となれば、寡兵の足利方はあっという間に押し戻され、激戦となったと。

この激戦に決着をつけたは、最期を期した直義が、松崎台地に在って未だに放心状態の主将尊氏の下へ、形見と称し、自らの右袖に着いていた錦の直垂届けさせたことによると言われています。


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(↑後年、小早川隆景が築城する名島城跡より見た多々良川。多々良川が海に出た所に位置するが、現在では住宅が建ち込んで川の位置がすぐにはわからなくなっている。)


さすがに、これを見て、尊氏も奮い立ち、自ら台地を降り川を渡って激戦の中へ突撃。

主将自らが戦線に加わったことで足利方の将兵が力を得たのと対照的に、宮方のほうでは最後尾を守っていた松浦勢が寝返ったことで、自壊の連鎖が発生。

結局、いつの時代も、数を頼りとする方は烏合の衆、大半は宮方有利の情勢を見て、菊池に同心しただけのこと。

(確かに、内心では足利氏方と思っていても、バカ正直にそれを言えば、少弐貞経のようになっていたわけで・・・。面従腹背はやむを得ない選択だったでしょう。)

結果、ついに、菊池勢は総崩れで敗走し、阿蘇大宮司惟直は戦死。


現地説明書きによると、「諸書によれば、この合戦の犠牲者は数千人に及んだと」言うが、昭和46年(1971年)に、この地に福岡流通センターが建設された際、一帯の発掘調査が行われたが、特に合戦を示す物は見つからなかったという。

この戦いの結果、九州のほぼ全域が足利方につくこととなり、完全に体勢を整え直した尊氏は一色範氏仁木義長などを九州の抑えとして残し、再び東上。

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摂津国湊川の戦いで、難敵・楠木正成を破り、室町幕府を開きますが、一方、この戦いで一敗地に塗れたとは言え、菊池氏はこの後も頑強に抵抗を続け、さらにそこへ、観応の擾乱による足利直冬の参戦でさらに九州戦線は混迷深くなっていくと。


まだ、書くことが無いわけでは無いのだけど、一応、これにておしまい。

                   平太独白


by heitaroh | 2018-07-07 14:29 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

太平記をスピンオフで歩く。 その7 「続・激突、多々良浜」 福岡市東区

先日の続きです。


すっかり、余談が長くなりましたが、ここでようやく話を元に戻しますと・・・の前に、立花道雪こと戸次鑑連の墓(↓)です

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で、本題。

まだ要塞化される前の松崎台地に登った足利尊氏が敵のあまりの大軍に絶望し、自害を口走り、弟の直義に止められた・・・という件ですが、実はこの話には伏線があります。


まず、尊氏一行は上方から落ち延びてきたとき、満足な武装すらしていなかったらしく、出迎えた肥前国守護の少弐頼尚の父、貞経が装備品の調達をしていたものの、菊池武敏らに率いられた宮方の軍勢が少弐の本拠大宰府を襲撃したことから、貞経は自害、尊氏一行の為に用意されていた武具もすべて焼失してしまったと。

つまり、尊氏が松崎台地の上に立ち、「もうダメだ」と嘆いたとき、その彼我の兵力差もながら、満足な武装すらしていなかったわけで、素手で完全武装した10万の軍隊に立ち向かうような気分だったでしょうか。

なるほど、確かに、尊氏ならずとも、「こりゃだめだ」という気になるでしょうね。

惨めに辱めを受けるくらいなら・・・と思うのもわかるような気がします。

さらに、自害するという尊氏を諫めたのも実弟直義ではなく、足利軍に加わっていた少弐頼尚だったという話もあります。

頼尚は、既に父を討たれているのみならず、敵軍を主導する菊池武敏とは仇敵の間柄、降伏という選択肢はなかったでしょう。


両者の確執は建武の新政の直前、一足早く決起した菊池一族が鎌倉方の鎮西探題館を襲撃した際、少弐、大友も誘ったにもかかわらず、彼らは裏切り探題側について菊池氏を攻撃。

結果、菊池一族は敗退して、多くが館の一角で首を切られました。


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(↑昭和の地下鉄工事の際に大量の頭骨が出土した所。識者により、この時に処刑された菊池一族の物では無いかと。)


なのに、ほどなく、中央で足利尊氏によって六波羅探題が陥落との情報が届くと一転、少弐、大友は鎮西探題を攻め、これを陥落せしめています。

菊池一族からすれば、「あいつらだけは絶対に許さん!」だったでしょうね。


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(↑尊氏はこの状態のまま、宗像大社に戦勝を祈願。筑前国宗像を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて筑前国の多々良浜に進出します。この期に及んでも尊氏に味方しようとする勢力があったということは注目すべきかと。)


ということで、次回に続きます。

                 平太独白

by heitaroh | 2018-05-13 17:26 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

太平記をスピンオフで歩く。 その6 「激突、多々良浜」 福岡市東区

先日の続きです。


戸次鑑連(立花道雪)の奮戦により、小早川隆景が守る多々良川防衛線の一端が突破されたことにより、毛利軍は立花山城に撤退。


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(↑戸次隊が渡河したのがどの辺りだったのかはわかりませんが、おそらく、このもっと向こうなんだろうと思います。)


毛利としては背後の立花山城の防衛が目的なのであって、無理してここで損害を出してまで決戦を挑む必要もない・・・ということだったのでしょうが、でも、それは机上で物を考えるほど簡単では無かったはずですよ。

「敵の一隊が川を渡ってこちらに向かっている」という報せを受けての撤退ですから、ある意味、敵前撤退に近く、一歩間違えば潰走に繋がりかねないわけで・・・。

こういう記述を見ていると、いつも、「戦いに次ぐ戦いで鍛え抜かれた戦国武士団」という言葉を思い起こします。

さすが、武勇に優れた吉川元春・・・。

かつて、敗走しているフランス軍の前に白馬に乗ったナポレオンが現れると、兵士たちはUターンして敵に向かっていったといいますが、そこまではないにしても、これもまた、見事な統率力だったと言わざるを得ないでしょう。


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(↑松崎台地から見る多々良川上流方向。右が多々良川、後方が河口。毛利兵が大友軍が姿を現すであろうと睨みし景かと。)


もっとも、多々良川の防衛線を突破したとはいえ、大友軍の損害も多く、この状態で、堅城・立花山城に籠もる手つかずの毛利軍主力を攻略できるはずもなく、双方とも再び、手詰まりとなってのにらみ合いとなったと。

ここで、後方にいる主将・大友宗麟が動く。

毛利が中国統一の過程で追った周防の前国主・大内の一族である大内輝弘に兵を与えて周防に送り、旧領回復の兵を挙げさせ、さらに、毛利の仇敵である山陰の尼子勝久山中鹿之助幸盛らが旧臣に奉じられて挙兵、山陽の浦上とも連携し、一気に毛利包囲網を形成した。

こうなると形勢逆転。

孫の毛利輝元とともに後方にいた元就毛利軍主力を呼び戻すこととし、吉川、小早川の両川は「一戦した後の撤退」を主張したが、元就は譲らず、やむなく、敵前撤退を開始。

少なくない被害を出しながらの撤退となり、以後、元就の死と、それに続く、織田信長の台頭の前に九州を顧みる余裕を無くしていく・・・と。


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(↑松崎台地より後方の立花山を望む。狼煙通信でも簡単な意思疎通は出来たであろうが、目が良い者であれば肉眼でも見えたのでは無いか。私も20歳くらいのとき、このくらいの距離で山麓を行く車の運転手が見えた。)


ということで、すっかり余談が長くなりましたが、次回より原点回帰(?)ということで。


                    平太独白


by heitaroh | 2018-04-07 07:56 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

太平記をリスペクトしてスピンオフ的に歩く。 その5 「続・第二次多々良浜合戦」 福岡市東区

ちょっと間が空きましたが、先日の続きです。


つまり、18回も小競り合いが続いていたのであれば、足利尊氏望見の松崎台地立花山城の出城として城塞機能を強化されていた可能性は十分にあるかと。

ここを城塞化することは、多々良川下流からの渡河に睨みをきかせることが出来るわけで。

ちなみに、多々良川は一級河川が無い福岡市にあっては比較的、川幅が大きな川です。

海に注ぐ辺りの幅はおそらく、福岡市の川では一番広いのでは無いでしょうか。

当時はダムなど無い時代ですから、水量も今より多かったはずで・・・

特に兵農分離前の合戦シーズンは冬。

もっとも、両度の戦いは必ずしも厳寒の季節では無かったようですが。


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(↑ちょっとわかりにくいかと思いますが、左に見えるのが多々良川下流。左から右へと流れており、その先にわずかですが博多湾が見えています。)


で、この戦いに至った立花山城争奪戦の経緯について記しておきますと、当時、大友毛利は北部九州の覇権を賭けて激しい争奪戦を繰り広げており・・・。

まず、一旦は室町幕府第十三代将軍・足利義輝の仲介によって和が保たれたものの、所詮、「平和とは戦争と戦争の時代」という言葉そのままの一時的な均衡に過ぎず、その間にも、謀略に長けた毛利元就の浸透工作は進み、結果、永禄1015671月、筑前の武将・秋月種実から、大友の重臣・高橋鑑種までもが毛利に靡き挙兵という形になって火を噴きます。

これに対し、大友宗麟は秋月、高橋を討伐すべく、大友自慢の戸次鑑連(後の立花道雪)、臼杵鑑速、吉弘鑑理の三家老に兵を与えて攻めさせるも、逆に、秋月勢の奇襲を受け敗北。

こうなると、筑前、筑後の国衆は動揺し、大友方の劣勢は日を追うごとに際立ってきます。

永禄111月には、大友方の筑前の重要拠点・立花山城を任されていた立花鑑載が叛旗を翻し毛利方となるも、大友が誇る三老も、毛利の援軍が到着する前に陥落させるべく、立花山城に押し寄せ、三ヶ月に渡る攻城戦の末、再び、立花山城を陥落させ、立花鑑載は自害。

すると、大友軍が秋月攻めに向かっている間に、毛利方も、「両川」と呼ばれる元就の次男吉川元春、三男小早川隆景らを送り込み、三度(みたび)、立花山城は毛利の手に。

攻守所を変えという言葉そのままのめまぐるしい展開ですが、結果、立花山城を再奪還したい豊州三老率いる大友軍と、これを阻むべく、城から打って出て多々良川付近に布陣した両川の毛利軍が睨み合う事態となります。

が、当時の多々良川河口付近は海からずっと続く干潟となっていたことから、毛利方の格好の防衛線になっており、大友方としても肝心の立花山城攻略の前に甚大な被害を出すわけにもいかず、結果、両軍は川を挟んで睨み合うことになったと。


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やがて、大友勢は対陣地よりやや上流に行った所にある長尾(現在の福岡市東区名子付近)から迂回渡河することを企図しますが、ここを守っていたのが後に碧蹄館の戦いでは日本軍を率いて戦う智将・小早川隆景。

さすがに抜かりはなく、大友勢は大いに苦戦したものの、戸次鑑連自ら陣頭に立って戦う決死の奮戦により、遂に、小早川勢を駆逐し、長尾を奪取しています。

これが、巷間、第二次多々良浜合戦・・・と呼ばれるもののハイライト部分の概略です。

ということで、また次回に続きます。

                       平太独白


by heitaroh | 2018-03-19 19:53 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

太平記をスピンオフで歩く。 その4 「第二次多々良浜合戦」 福岡市東区

先日の続きです。

足利尊氏が敵の大軍を見て絶望した所はあまり見通しも良くなかったので、行き止まりとは書いてあったのですが、もう一段下の道に降りてみました。

ここは、高さは尊氏望見の場所より一段低くはなるのですが、目の前を遮るような物は無く、「穴場」かと思われるほど眺望が利きました。


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(↑まさしく、この建物が建ち並んだ部分に敵が充満していたのだと思うと、尊氏が絶望したというのもあながち、嘘でもないような。)

敵は二万騎といいますが、もし、純粋に戦闘要員だけが二万人いたとして、一人辺りの占有スペースを1㎡で計算すれば、単純に2kmx1km。

正面に対峙する形で出来るだけ展開させたとすれば横方向に2km、奥行き1km。

つまり、ほぼ、ここから見える風景の前半分はすべて敵で埋まっていたということになります。


で、この撮影ポイントですが、突き出した二本の山の尾根の上にあって、その尾根と尾根の間がUの字になっており(↓)、これって、自然の地形にしては出来すぎてるんですよね・・・、何だか出丸みたいで。

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でも、ここが城だったとは聞いたことが無いし、何より、尊氏が登ったときは決戦の直前であり、土木工事をする余裕なんて無かったはずです。

で、思い出しました。

多々良浜合戦は二度あったんだ・・・と。


第一次合戦で川を挟んで睨み合ったのが足利尊氏と菊池武敏であったのに対し、第二次合戦で対峙したのが大友宗麟毛利元就

ただ、大友と毛利の合戦と言いながら、実際には大友宗麟は実戦型の武将では無く、毛利元就はこの時、既に高齢であったため、実際に対峙したのは、それぞれ、立花道雪小早川隆景でしたが、両者ともに代理とは言え、音に聞こえた名将同士。

西の川中島」と言っても良い、上杉謙信、武田信玄にも劣らぬ激しい合戦が繰り広げられたようです。

もっとも、この戦いも川中島合戦と同じく、一回きりの決戦では無く、長期間に渡り、計18回の対陣があったと言われており、そのうち、激戦となったのが永禄121569518日の合戦だと言われています。


この戦いはそもそも、第一次と違い、在地領主同士の領土拡張戦争。

従ってその目的は、多々良川の領有ではなく、国際貿易港・博多の確保のための筑前奪取であり、そのためにまず目標となったのが要衝・立花山城の領有でした。

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(↑山頂付近より振り返る立花山。)


いわゆる、「目的はパリ、目標はフランス軍」ならぬ、「目的は博多、目標は立花山城」ですね。


次回に続きます。

                      平太独白


by heitaroh | 2018-02-15 06:04 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

太平記をスピンオフで歩く。 その3 「多々良浜合戦」 福岡市東区

先日の続きです。


足利尊氏が見て、敵のあまりの大軍に絶望したといわれる風景はこの辺だろう・・・と思いつつ、そこを過ぎ、少し先の、台地が一番高くなっている辺りに来てみたところ・・・、見事に、「ビンゴ!」でした。

そこは、樹木が繁っていた関係で、あまり、見通しはよくありませんでしたが、ふと見ると、傍らの説明看板(↓)に、「ここです!」の記載が・・・。


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改めて、傍らの樹木の間から透かしてみると、こんな(↓)感じでした。

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ちょっと、わかりにくいですが、樹木が無ければ前回掲示した画像より、もっと見晴らしがいい風景が写っていたと思います。


で、ここを過ぎ、少し下に行くとこの看板(↓)が・・・。

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まったく存在は知られてませんが、しっかり、地元では尊氏が本陣とした所という認識はあったわけです。

ただ、私は逆から上がってきてしまったので、説明看板に出くわし、それから、この看板を見ましたが、こっちから上がってきてたら、説明看板の所には辿り着けなかったかもしれません。

台地の頂きには現在、ガスタンクのような物が建っているのですが、私が上がってきた方の遊歩道は多々良川の方向からすると裏側になり、そこから、タンクを回り込むような形で「行き止まり」と書いてある道があり、市内とはいえ、そう滅多に来る所じゃないからついでに覗いておこうと、そちらへ行ってみたところ・・・。


ということで、次回に続く。

乞うご期待!

                 平太独白


by heitaroh | 2018-02-01 07:47 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

太平記をスピンオフで歩く。 その2 「寒風多々良川」 福岡市東区
先日の続きです。

建武3年(1336)、後醍醐天皇建武の新政から離反した足利尊氏は、楠木正成北畠顕家らと戦って敗れ、再興を期して九州へ落ちていったわけですが、九州では足利方に味方していた肥前国守護の少弐頼尚らに迎えられます。
少弐氏はその後の戦国乱世が進行するうちに滅亡したので、今ではあまり知る人も少ないと思いますが、当時は元寇などでも奮戦し、島津、大友と並ぶ、九州御三家大名の一つに数えられるほどの勢家でした。
(元々、少弐とは「次官」という意味で、鎌倉幕府が成立すると外様の御家人・武藤氏が大宰府の少弐に任じられ、以後、少弐を名乗りとしたと。)
その少弐らに先導され、筑前に入った尊氏ですが、待ち構えていたのは、宮方に味方した肥後国の菊池武敏をはじめ、筑前国の秋月種道、肥後国の阿蘇惟直、筑後国の蒲池武久、星野家能ら九州の諸豪族の大半2万騎以上。
菊池武敏に主導された宮方勢は、まず、少弐氏の本拠・大宰府を襲撃し、頼尚の父で菊地の長年の宿敵・少弐貞経を自害させます。

一方、足利勢は、宗像大社(現福岡県宗像市)に戦勝祈願した後、筑前国の多々良浜(福岡市東区)に布陣した宮方と向かい合うことになります。


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(↑寒風水面を渡る多々良川。)

このとき、足利軍は約2千騎(太平記によると300)に過ぎず、尊氏は敵の大軍を見て戦意喪失、「切腹する」と言ったと伝わります。

この話がどこまで本当なのかはわかりませんが、過日、時間が空いた際に、「多々良浜古戦場の碑」を見て、せっかくだからすぐ横を流れる多々良川まで行くか・・・と思い、行ってみたのですが、そこに飛び込んできたのがこの(↓)風景。

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以前から、「尊氏が多々良浜合戦を前に陣を敷いたとすればこの丘だろうな」と思っていたので、一度、行きかけたのですが、当時はカーナビも無い時代、ちょっと車では入っていきづらかったこともあって、今までちゃんと行かないままでした

なので、ちょうど時間はあるし、車はないし、ちょっと行ってみるかと。

で、この丘、画像では大したことないように見えるかもしれませんが、結構、高さがあり、坂を登りつつ、尊氏が眺めたとすればこの辺りだろう・・・と見た風景がこれ(↓)。

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(川面は見えませんが、中央に走っている都市高速の手前下が多々良川です。)


この辺りは川の河口ですから、当時は、割とすぐ下まで潟と呼ばれる湿地帯が来ていたのでは無いでしょうか。

木立の隙間から見える風景は、なるほど、意外に眺めが良いなと。

腹を切ると言ったかどうかは別にして、おそらく、尊氏がここへ登ってきて敵陣を俯瞰したのは間違いないでしょう。

とすれば、この向こう、川の向こう側の平地一杯に敵兵が充満しているわけで、こちらは満足な武装も無い・・・。

尊氏が「もはやこれまで」と思ったのも無理は無いかと。


で、尊氏の実弟、足利直義はこれを押しとどめ、自ら、奮戦して菊池軍を撃破。

これにより、九州のほぼ全域を掌握した尊氏は捲土重来で東上し、湊川の戦いで楠木正成を敗死に追い込み、室町幕府を成立に漕ぎ着けたと。

ただ、これを押しとどめたのは傍らに居た少弐頼尚だったという話もあり、もし、そういう話があったとすれば、こっちのほうが本当で、直義はそれに同調したというところではなかったでしょうか。

頼尚からすれば、既に父は殺されているわけで、復仇の念に燃えていたでしょう。

次回に続く。


                         平太独白


by heitaroh | 2018-01-26 19:25 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

太平記をスピンオフで歩く。 その1 「多々良浜古戦場の碑」 福岡市東区
今、せっかくアップしたのですが、なぜか、消えました。
ばかばかしくてやってらんないので、さわりだけ書いてみます。

先日、車を修理に出したところ、「完成するまで、3時間ほどどこかで時間を潰してきてくれ」と言われたので、やむなく、周囲の地図を見ていると、「多々良浜古戦場の碑」という文字が。
さらに、近くには「兜塚」という文字も見える・・・。
すぐ近くには、多々良川という川が流れており、ここで、南北朝時代に足利尊氏が菊池武敏らを破った「多々良浜合戦」が行われたことは知っていましたので、もしや・・・と思い、行ってみました。

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(↑多々良浜合戦の戦死者を祀った兜塚。)

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(↑一方、こちらは「多々良浜古戦場の碑」。何か、古戦場の碑ではなく、国体か何かの記念碑のような。)

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(↑でも、表題を見ると、「多々良潟の碑」とあり、「必ずしも、古戦場ということにはしてないんだ」と思ったけど、下の説明板を見ると、しっかり、「古戦場の碑だ」と書かれている。なーんか、作っている途中で、「そぐわない」とかいう意見が出て、こんな玉虫色のことになったんじゃないの?って気が。)

で、まず、戦いその物について、簡単に触れておきますと、この戦いは、建武3年(1336)、後醍醐天皇建武の新政から離反した足利尊氏楠木正成北畠顕家らに敗れた際、再興を賭して九州に下り、迎え撃った肥後国の菊池武敏、阿蘇惟直ら2万の軍と激突。

足利軍は約2千騎(太平記によると300)に過ぎず、尊氏は敵の大軍を見て戦意喪失。

切腹すると言ったが、尊氏の実弟、足利直義はこれを押しとどめ、自ら、奮戦して菊池軍を撃破。

結果、九州のほぼ全域を掌握した尊氏は再び、体勢を整え東上、摂津国湊川の戦いで楠木正成を破り、室町幕府を成立させた・・・と。

つまり、日本史の大転換を果たしたという意味で、極めて、エポックメイキングな戦いなのですが、これを詳述した物は殆ど見た記憶がなく。

おそらく、詳しいことはわからないのではないでしょうか。

ということで、実際に自分の足で行ってきたわけですが、疲れましたので、また後日に続くの巻。

もう消えないよな・・・。

                           平太独白


by heitaroh | 2018-01-20 07:35 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

英賀合戦の地を歩く「なんじゃこりゃ?」の巻
先日、ちょっと京都まで行ったので、帰途、姫路に一泊し、かねてより行きたかった姫路郊外の英賀に行ってきました。

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(↑姫路城遠望。降りたら正面に城が出迎えるという駅も珍しいですよ。)

英賀と言えば、天正5年(1577年)5月、東上を開始した毛利の先遣隊5千を若き黒田官兵衛孝高(当時は小寺官兵衛)がわずか500の軍勢でこれを破った英賀合戦で知られる地ですね。

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私の認識では、毛利の一翼を担う小早川隆景の部将・浦宗勝に率いられた五千が、本軍に先駆けて、まずは、同盟する播磨国の英賀の地に上陸し、船旅で疲れて休息していた所を官兵衛に襲撃され、再び、海に追い落とされた・・・というものでした。

ただ、現地に初めて行ってみて、「なんじゃこりゃ?」と。
まず、播磨へ東進する毛利軍は直接、海から英賀に上陸したのかと思っていたら、毛利軍は、合戦に先立ち、「海上から室津(現・兵庫県たつの市)に上陸し、英賀から姫路を目指した」となっており、室津ってどこ?と思い、地図を見てみたら、英賀から10kmくらい離れてるんですね。
ここに上陸して英賀を陸路で目指したのなら、「船酔いで休息」という前提自体が崩れるわけで。

e0027240_147265.jpg

さらに困ったのが、官兵衛が襲撃した場所ですが、何も、毛利軍は上陸して野原でくつろいでいたわけではなく、英賀城という城の中の英賀御堂という、本願寺の施設の中にいたんですね。

e0027240_1484084.jpg

おまけに、一帯は当時は葦などが茂っていたとしても、特に目隠しになるような遮蔽物もなく、比較的、見通しのいい所で、小寺方が近づいてくれば見つかってしまう可能性が高い・・・。
だからこそ、毛利軍は油断していた、しきっていたといえるのでしょうが、それにしてもと。
つまり、官兵衛は奇襲とはいえ、わずかな軍勢で大兵力が籠もる城を攻撃したことになるわけです。

e0027240_1493869.jpg
(↑官兵衛が襲撃をかけた毛利兵休息の英賀御堂は、今では昭和の企業誘致で川の下。兵どもが夢の跡。)

おそらく、毛利方先遣隊五千のうち、半分が室津に上陸し、残り半分はそのまま航行を続け、英賀城の入り口、川沿いに設けられた英賀港に上陸し、そのまま、城内の本願寺に入って休憩していたということだったのではないかと思いますが、それでも、敵には2500の兵がいるわけで。
それに対し、小寺方は各地に抑えの兵を割かなければならず、また、小寺方と言いながら、主君小寺政職には大した戦意はなく、官兵衛手持ちのわずか500の兵しかいなかったと言われています。

e0027240_14115026.jpg
(↑官兵衛決死の背中を見送った播磨の山河。)

官兵衛はこの時、近隣の農民に旗を掲げさせ、織田の援軍が既に来ているように見せかけたことから、その智略を賞賛されてますが、でも、この程度なら、官兵衛ならずとも考えますよ。
まあ、毛利のこの大兵力を相手に戦おうと思う時点で既に常人離れした思考なのでしょうが。
ただ、こういう状況の中ではもう少し、何かがあったはずです。

ここで一つ思い当たることがあります。
英賀城主・三木通秋は一向宗の熱心な門徒であったものの、家臣の三木清閑は官兵衛の妹婿でもあり、その常人離れした才知のほどを妻から聞いていたのでしょう、かねてより官兵衛に協力的で、おそらく、この時も、心情的には官兵衛の味方をしたかったのではないかと。
が、主君を始め、領内の一向宗門徒へ配慮する必要に迫られ、やむなく、敵方についたと。
それだけに、官兵衛の味方をしないまでも、官兵衛軍が近づくのを黙認、いや、城内への侵入を手引してやったと。
そうでも考えなければ、どうにも、有り得ない話のように思えるわけです。

清閑の子孫はのち、福岡藩士となったといいますが、関ケ原合戦の翌年、慶長6年の福岡藩分限帳を見ると、家臣団の中に「三木」の姓を名乗る者が二人。
ともに、「吉」の字がついてますから、兄弟だったのではないかと思いますが各1200石と500石。
重臣とはいかないまでも、まずまずの身分だったかと。
彼らが、子孫だったのでしょうか。
                  平太独白
by heitaroh | 2016-11-25 06:44 | 歴史 | Trackback | Comments(2)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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