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再びの自己満足シリーズ 那の名流・鉢の底川 その8
昨日の続きです。

昨日の航空写真でおわかりのように番托井堰のある場所は、現代でも殆ど陸続きのように見えるほど中州に樹木が繁っており、つまりは、そもそもが一帯は土砂が溜まりやすい場所だった・・・ということなのでしょう。

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昔はダムなどはありませんから、雨が降れば水量が増え、降らなければ減り・・・という状態で、水量が減ってチョロチョロとしか流れていない時ほど、工事もしやすいし、需要もあったということでしょうが、反面、一旦、大雨が降れば堰も流されることになり、さらに、こういう土砂で流れが滞りがちになっている所では水は他に逃げ道を探して支流を作る・・・。
それが、おそらく、ここに堰が気づかれる前の鉢の底川の状態だったのでしょう。
特に、番托に井堰が築かれて、ここより上流の水位が増えると、鉢の底川に水が流れるのは基本的に常態化していったと思われます。

で、ようやく、ここから鉢の底川に入ります。
まず、鉢の底川の源流一帯を現在の地図で見るとこう(↓)なっています。

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つまり、堰の下流にももう一本、枝分かれした形で那珂川に注いでいるわけですね。

実はこのシリーズを始めるにあたって、話を上流から始めるべきか、下流から遡っていくべきか・・・で結構、迷いました。
無論、私にとって馴染み深いのは下流ですが、現存していない為、そこから話を始めると話が極めてわかりにくいのに対し、上流から始めると話が進めやすい反面、問題となってきたのが、この分流と、川の起点となる源流のすぐ近くで合流している川の存在でした。
つまり、この状態で、ここが鉢の底川の源流だと決めつけて良いのか・・・ということですが、結論を先に言えば、この川は現在でも地名になっている「五十川」でして、一応、別の川と考えて良いと思い至りました。

こちらの方は、後日、このシリーズが完結した後で、また、番外編として別途、話を続けるつもりですので、話を先に進めるとして、こちらの源流も確認して来ましたが、どういうわけかここにも堰があり、同じく、堰を挟んでそれぞれに那珂川に繋がってました(↓)。

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(どういうわけか、ここも河川工事中でした。)
しかも、地図を見た限りでは下流側のほうが後からむりやり、開通させた観があるのに対し、実際に行ってみると、上流側の方が圧倒的に存在感が薄いんですよ。

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(↑下流側水路が那珂川に注ぐ部分です。左から、ここまで五十川が合流してきているのがわかります。)
これは私見ですが、おそらく、当初、農業用水や飲料水として使っていたのが、都市化の進展とともに逆に生活排水を流す為の川となったことから、堰の下流に別途、川を掘ってここに排出したのではないかと愚考します。
(事実、前々回載せた昭和の地図には下流側の水路は載っておりません。)

ということで、次回に続く。
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-05-23 08:32 | 地域 | Trackback | Comments(0)

再びの自己満足シリーズ 那の名流・鉢の底川 その7
少しご無沙汰になってしまいましたが、前回の続きです。

既述の通り、鉢の底川の下流は江戸時代初期、元禄年間の地図にも記載されていますのでおそらく、遅くとも室町期には川は形成されていたのではないかと思いますが(室町時代の地図でも見たような。)、対して、番托井堰豊田徳作によって石組みに作り変えられたのが18世紀半ばですから、この時点では既に川は存在していたということになります。

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(↑鉢の底川取水口を対岸から見た物です。)

ただし、それ以前から井堰自体は丸太で造った簡易な物があったらしく、となると、必ずしも「川が先」だとも言えないわけで、つまり、簡易な堰を造ったのでその上流から水を引く川を掘った・・・とか、あるいは、堰を造ったことから、その上流部分の水位が上昇し、自然に低地に向かって流れ始めた・・・という可能性もあるわけです。
で、これ(↓)。

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明治36年の対岸の村の絵図です。
(明治の物ですから著作権などは無いと思いますが、貴重な絵図であるにも関わらず、以前見た時よりも明らかに劣化が進んでいることから、一石を投じる意味で敢えてここに掲げました。なお、一応、当方の判断で一部修正を加えております。)

下に流れているのが那珂川で左から右へと流れており、その左端に番托井堰が見て取れますが、その上流から水路が引かれているのがわかるでしょうか。
(つまり、鉢の底川はこの絵図の下、ちょうど、切れている部分に端を発し、下の方を右手へと流れていることになります。)
ちなみに、一番上にある「大溝」という水路は私が20歳くらいまで存在してましたので、私もしっかりと記憶しております。

で、番托井堰に話を戻すと、まず、堰の設置場所はどこでも良いというわけではなく、特に、丸太で簡易な堰を築くわけですから、そうなるとやはり、設置しやすい所・・・ということになるでしょう。
で、ご覧頂きたいのがこちらの番托井堰を写した航空写真(↓)です。

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これはある意味、非常に貴重な写真でして、というのも、現在、この場所は河川工事の最中で、すっかり様相を変えてしまっているからです。
工事完了後、どの程度、現状復旧されるのかわかりませんが、少なくとも、この川中にある茂みはもうありません。
あるいは、この中洲自体、削り取られて完全に姿を消すのかもしれませんが、この場所は上の絵図でもわかるように、「カッパ相撲の場所」とされており、そういう伝承がある所だったのでしょう。
治山治水も良いですが、もう少し、謂れや伝承にも配慮して欲しいものです。

一向に話が進まないけど、とりあえず、次回に続く。
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-05-22 18:28 | 地域 | Trackback | Comments(0)

再びの自己満足シリーズ 那の名流・鉢の底川 その6
昨日の続きです。

鉢の底川の源を語る上では、どうしても、番托(ばんたく)井堰の存在を抜きには語れません。
番托というのは那珂川の中流域に設けられた堰でして、この井堰(いぜき)は、昔は、丸太などでせき止めていたそうですが、大雨のたびに流されたりしていたのを、江戸時代中期、18世紀半ばに堅粕村(現博多区)の豊田徳作という大庄屋が自費で石組みの堰に作り替えたのだそうです。

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(↑現在の番托井堰。)
もっとも、当時、民間による土木工事は禁止されていたことから、容易に許可が下りず、その為、徳作はしつこく嘆願申請を繰り返したことから、ついには投獄されてしまったのだとか。
この辺は、自費で公共性の高い工事をしようと言っているのに、許可どころか、投獄されてしまうなどというのは現代人の感覚からすると、ちと、酷すぎるようにも思いますが、その後、そのことが当時の福岡藩六代藩主、黒田綱高の知る所となったことから、急転直下、徳作は釈放され、工事にもゴーサインが出、明治13年、徳作の功績を讃え、碑(↓)が作られたとか。

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徳作が築いたこの堰はその後、戦後まで下流域を潤し続けたようですが、やがて劣化が目立つようになり、遂には福岡市内の大部分が浸水したといわれる昭和28年6月大洪水により、上流の老司井堰とともに決壊し、翌29年に、現在の鉄筋コンクリートの井堰が築かれたのだそうです。

で、鉢の底川の源流ですが、この堰のすぐ上流にあります。
ここ(↓)です。

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源流というよりも、現在では取水口といった方が正解でしょうか。
そこから見た番托井堰(↓)です。

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すぐ、脇にあるのがおわかりいただけると思います。

次回に続く。
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-05-13 17:25 | 地域 | Trackback | Comments(0)

再びの自己満足シリーズ 那の名流・鉢の底川 その5
昨日の続きです。

で、まず、那珂川御笠川の間が一番狭まるこの地域の間に張り巡らされた小川・・・を地図で追っていくと、大元はどうやら、那珂川の、現在、番托井堰と呼ばれる所に端を発し、1本は御笠川へ注ぎ、もう1本はJR鹿児島本線の方向へ流れておりました。
で、その延長線上には我が地元・博多駅前、かつての下人参町地区があるわけで、「あ!これは鉢の底川なんだ!まだ、上流では生きてたんだ」・・・と気づきました。

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(↑現在、「鉢の底通り」と名付けられているキャナルシティ脇。川は、かつて、この突き当りで再び、那珂川へ注ぎ込んでおりました。同一人物だったわけですね。)

で、今でこそ、生活排水の為のドブ川となっているものの、おそらく、元は農地を潤す灌漑用水、つまり、クリークだったのでしょう。
特に、戦中戦後の食糧難の折りに、食糧増産の為にそれらの水利は最優先で整備されたことが考えられ、それ以前とは大きく形を変えてしまった可能性もあるわけです。
ただ、そうは言っても、掘削される場所にはされるなりの理由があるはずで、一番はまず、「掘りやすい」ということで、次いで、二番目が「どうしてもそこに水を引かねばならない何かがある場合」・・・ということだったでしょうか。
(その上で、もっと余裕があれば、各人の田の傍らへ毛細血管のように引いてくれば良いわけですから。)

e0027240_1924854.jpgそう考えれば、一番引きやすいのは一度、誰かが掘った溝で、平たく言えば、かつての堀の跡などがあれば、それを利用せずにわざわざ、一から開削するとは考えにくいわけで、従って、クリークだからと言って、すべて黙殺してしまう必要もないと思うんです。
(←往古・鉢の底川に思いを馳せる。)
もっとも、それらをあまり、安易に広げ過ぎると肝心の耕作面積の減少に繋がるばかりか、今度は「洪水」という問題が生じてくるわけで、あまり、無闇な増設も出来なかったでしょう。

e0027240_1952416.jpgということで、まずは我が家にある、一体の川の流れがわかる、もっとも古い地図を出して来ました。
それがこれ(←)です。

たぶん、昭和40~50年頃の物ではないかと思うのですが、我が家が在する博多駅前の方は、もう、当時は博多駅地区土地区画整理によって下人参町時代とはまったく別物になってましたが、この辺はまだ、当時はそれほど大きく開発が進んでいなかったはずで、ある程度、参考になるはず・・・と思ったんです。
(昔の住宅地図は使い捨ての感覚なんでしょうね。どれほど探しても、年度の記載が一切ありません。)

ということで、次回に続く・・・。
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-05-09 19:23 | 地域 | Trackback | Comments(6)

再びの自己満足シリーズ 那の名流・鉢の底川 その4
昨日の続きです。

その地禄神社ですが、裏手から入った為、表に抜けようとして、こちらにも前に小さなドブ川があることに気づきました。
この川は振り返って正面から見ると、神域を守るように川で外界と隔てられており、「那珂八幡宮が本丸なら、こちらは出丸のような砦か、あるいは城主の居館があったのではないか?」・・・と、そんな気にさせられました。

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となれば、今では、通りを挟んだ別個の神社になってますが、元々は、同じ城の城域で、これらの川は山賊や野盗、流民などからの防衛の為の堀だったのではないか・・・と。
さらに、この川を辿ってみましたが、それ以上は、川は入り組んでるし、人家と人家の間の道無き部分を抜けていたりで、全体の把握は諦めて、家路につきました。
で、帰宅後、改めて、全体把握のために地図を見たところ・・・、私は大変な事実に気が付きました。
この部分は、福岡市中心部を潤す二大河川、那珂川御笠川の流れがもっとも狭くなっている部分(↓)だったんです。

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(ちなみに、現代では並列して走っている両川ですが、中世以前は御笠川は下流・・・、現在の博多駅付近から西に折れて、那珂川に合流していました。)

と言っても、実は福岡市には1級河川がありませんで、両川とも2級河川ですので、それほど大した川ではありませんが、それでも明治期以前・・・、いや、戦後すぐまでは主な橋は木造でしたから、「橋を作る」ということは大事業の割りには、せっかく作っても、すぐに大雨が振れば流されてしまう、何とも割の合わないものだったことがわかるでしょうか。
実際、江戸時代までは「博多」「福岡」の間を流れる那珂川には橋は1本しか架かっていなかったという話もあり、となれば、人々は殆どの場合、浅瀬を見つけて渡る・・・というのが一般的な渡河の仕方だったでしょう。
となれば、真冬大雨の時などは、渡るには難渋していたと思われ、つまり、現代の人が考える以上に、川は陸上交通という観点から見た時には障害以外の何物でも無かった・・・ということでしょう。

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んで、この両川の間が一番狭くなった部分を流れる川を地図上で辿っていると、そのうちの1本が私が勝手知ったる博多駅前地区の方に伸びているではありませんか・・・。
「ん、これは鉢の底川と結びつくんじゃないか?!」と・・・。

ようやく、本題に届きそうですが、続きは次回・・・ということで(笑)。
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-05-08 17:14 | 地域 | Trackback | Comments(2)

再びの自己満足シリーズ 那の名流・鉢の底川 その3
先日よりの続きです。

間が空いてしまったので、どこまで書いたかわからなくなっているのですが、まあ、気が向くまま・・・ってことで(笑)。

e0027240_181661.jpgまず、私が「鉢の底川は上流では生きている」ということに気づいたきっかけとなった那珂八幡宮ですが、実はここに来るのは初めてではありませんで、30年ほど前でしょうか、仕事ついでの昼休みにぶらりと訪ねたことがありました。
当時は、昔の「村社」を市街地が取り囲んだって感じで、道は狭いし、入り組んでるしで、わざわざ行くのはちょっと・・・という感じだったのですが、今では傍らを大通りが通り、わかり易くはなったのですが、味気ないっちゃあ味気ないような(笑)。

で、ここ・・・ですが、大通りで割かれているものの、この辺では唯一・・・みたいな小丘になっており、今でこそ、ビルだらけで見晴らしは良くないでしょうが、戦前くらいまではかなり見通しが利いたのではないかと思いつつ、行ってみると、やはり、前方後円型古墳でした。

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ただ、古代には周辺の豪族の古墳であったとしても、他の時代でも有事の際の防衛拠点という観点から考慮すれば、この立地を活かさない手はない筈で、中世にはここは城(砦)だったのではないか・・・と。
(少なくとも、山賊や洪水などから身を守る避難所ではあったでしょう。)

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で、ここに登った後、周囲をぐるりと回ってみると、まるでこの小丘の同心円上に形作られたのではないか・・・と思えるような川が一つ・・・。
と言っても、川・・・というよりも「側溝」と言ったほうが適切ような生活排水用のドブ川(水はわずかでしたが。)でしたが、「これは、今でこそ、ドブ川だがもしや、城の防衛の為に人工的に掘られた」ではないのか・・・と思い至りました。

であれば、他にもこういう堀の名残の川はあるはずだ・・・と思い、今度は、通りの向こうにある緑地に行ってみると、こちらには地蔵堂があり、おそらく、開削前は同じ敷地だったのでしょう、さらに他の緑地も探して散策していると、再び、神社に出、こちらは地禄神社となっておりました。
地禄神社とは、地禄とは「土地を肥えさせる」という意味で、地味肥沃、農耕の豊作を祈願した神社なのだそうですが、福岡市近辺では割りと見かける神社でして、私はてっきり、愛宕神社などと同様に、日本中、どこにでもある神社だとばかり思ってましたが、これは福岡独自の土着信仰だったようですね。
私もちょっと意外でした。

なかなか、本題には行き着かないけど、次回に続く。
                                    平太独白
by heitaroh | 2013-05-07 20:01 | 地域 | Trackback | Comments(2)

再びの自己満足シリーズ 那の名流・鉢の底川 その2
先日の続きです。

で、この「鉢の底川」ですが、私が子供の頃には幅1mくらいのドブ川で、その傍らを当時、「往還通り」と呼ばれた旧道が走っておりました。

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(↑今では「人参通り」という名称になっているそうですが、要は、博多駅地区土地区画整理事業の中で、すべての区画が変えられる中で、なぜか、唯一残った旧道なわけです。川は右端に沿ってありましたが、今でも、川の形に蛇行しているのがおわかり戴けると思います。)

この道は、おそらく、江戸時代以前に、人々が回り道を嫌い、便宜的に、この川の河畔に沿って博多の南にある竹下村警弥郷村などへ抜けようとして、往来するうちに出来た道だったのでしょう。
(もっとも、拙宅があった旧下人参町地区は、たびたび、申しておりますように、すぐに床下浸水する低地帯でしたので、明治中期以前、人々が住み始めるようになる前は、耕地としても限られた作物しか栽培できないような「湿地帯」で、従って、おそらく、少し雨が降ると通行がためらわれるような道だったでしょう。)

そこを区画整理の際に片側1車線の道路にする上では、鉢の底川のスペースというのは余計な物以外の何物でもなく、「博多駅前」になることで、今後、増大するであろう交通量を考慮すれば暗渠では持たない・・・という判断があったのだろうと思います。
結果、鉢の底川は埋め立てられ、道路の一部となってしまったことで、(前回も申しましたように、以前、道路工事の際に見たところ、暗渠ではなく、完全に潰されておりました。)他のドブ川と同様に、私にとっては、「かつて、過去に存在した川」という・・・、つまり、「もう、この世には居ない人」のような認識となっており、哀しいかな興味の対象から完全に外れておりました。

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それが、先日、たまたま、運動不足解消のために散歩しようと思い、旧竹下村(いつの時代のことだ・・・と(笑)。)にある、那珂八幡宮なる神社(↑)へと行った際、何と、上流の方ではまだ、この川が健在であることに気づきました。
それで、「この川はまだ、死んでいなかったんだ」と思い、改めて、「この川はどこに続いているのか?」という、少年の日の果たせぬ夢の続きを追ってみようと思った次第でした。

ということで、なかなか、本題に辿り着かないけど、とりあえず、次回へ続く・・・。
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-04-30 17:25 | 地域 | Trackback | Comments(8)

再びの自己満足シリーズ 那の名流・鉢の底川 その1
以前、まったくの自己満足として、
平太郎独白録 : 博多駅前史という一部のマニア向けの特集をやっておりましたが、今回も再びの自己満足シリーズです。

e0027240_1947859.jpg私が子供の頃・・・、昭和44年に現在の博多駅前になる以前の、それまでの福岡市下人参町の我が家は2本のドブ川に挟まれた地域にありました。
(←これが走っていた時代です(笑)。)
従って、たびたび、触れておりますように、大雨が降るとすぐに床下浸水になってましたが、当時は割りと普通にあったドブ川でしたし、私が生まれる前までは周囲は田んぼばかりだったそうですから、田に水を引くためのクリークのなれの果て・・・だったんだろうと思い、特に、気にしてませんでした。

それが、博多駅前史を書こうとして調べているうちに、現在のキャナルシティ前に「鉢の底川」という名前を見つけ、「そういえば、ドブ川があったような・・・」と思い、辿って行くと、その川が我が家の傍を流れていたドブ川の1本に繋がっていたことがわかり、「あ、あのドブ川には名前があったんだ」と知りました。

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(↑いずれも画像は、以前、ご紹介した大分県は豊後高田市にある「昭和の町」にて撮影したものです。我々の年代には結構、ここはワンダーランドでしたね(笑)。)

亡父からは特に、この川のことについて聞いた記憶は無いのですが、この川のもう一本向こう、現在の住吉神社の中にも昭和の初めまでは小川が流れており、大変、綺麗な清流だったそうですが、上流に地下足袋工場(現在の九州松下電器?)が出来、そこの廃液が流れこむようになって、一気にドブ川になった・・・という話も伺いましたので、あるいは我が家の近所の川もそうだったのかもしれません。

で、もう一本のドブ川の方はおそらく、クリークのなれの果てだったのでしょうが、文化時代の絵図には、この辺に「小金川」という川が流れており、「今ハ田と成ル」との記載がありますから、それを掘り起こした川だったのでしょう。
一方、「鉢の底川」の方は、その後、色々と聞くうちにこの川は、江戸時代初期、元禄年間の地図にしっかり載っていることがわかり、「あ、これはクリークじゃないな」・・・と。
で、その後、博多駅土地区画整理事業に伴い、この川は無くなり、今は暗渠にされているんだろうとばかり、思っていたのですが、数年前にたまたま、道路工事していたのを見ると、完全に潰してありました。
(工事の人も、「やたら、瓦礫やらなんやら出てくるからおかしいなと思っていたんですよ」・・・と。)

元禄年間の絵図画像も昭和14年の航空写真もありますが、やはり、ここで掲げるのは控えさせて頂いた方が良いと判断し、次に続きます。
                                         平太独白

by heitaroh | 2013-04-26 19:59 | 地域 | Trackback | Comments(2)

桜の季節の豊後路、国東半島の旅 その6 
昨日の続きです。

田染荘を出て、結構、もういい時間だったにもかかわらず、行ったのがこちら(↓)。
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(何だか、戦国武者陣地に迷い込んだかのような勇ましさが・・・(笑)。)

e0027240_15441129.jpgここは、熊野磨崖仏(←不動明王?)と呼ばれる、岸壁に彫られた石仏群で、この辺一帯では割りと見られる物です。

私も40年くらいまえに、同じ大分県の臼杵という所にある石仏群を見に行ったことがあるのですが、中には、劣化が著しく、既に当時から石灰でつぎはぎされた物までありましたので、そう考えれば、ここのは素晴らしい保存状態を保っていると言えるでしょうか。
(当時の説明では、多くが作者制作意図不明ということでした。)

ただ、また、これが、車ですぐ近くまで乗り付けられるのかと思っていたら、駐車場から、しばらく坂を登った先にある、この階段(↓)を登らなければならず・・・。

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でも、ここまではまだ、良い方でして、そこから先はこの、とても平とは言えない石段(↓)・・・。

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そこでようやく、前掲の磨崖仏があり、さらにその上には神社なのに、なぜか、線香をあげなければならないお社が・・・。

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前々回も申しましたが、私は、元々、神仏混合が本当の姿だと思うんですよね。
明治期の廃仏毀釈運動で強引に分けられてしまいましたが、信仰する方がそれで良いと思えば、役行者も同じ所に祀って良いんじゃないですか?

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そんでまた、この道(↑)を下りて帰ってきたわけですね。

  「信心を 試す仏に 汗応え」 梁庵平太

親愛なるアッティクスへ
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-04-05 07:35 | 地域 | Trackback | Comments(0)

桜の季節の豊後路、国東半島の旅 その5 田染荘小崎
昨日の続きです。

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荘園が解体され、その終焉を迎えたのは、昨日も申しました通り、豊臣秀吉による太閤検地によってですが、実はそれよりも、荘園、いや、日本の景観そのものに決定的な影響を与えてしまったことがあります。
それが、近代の耕地整理です。

e0027240_15281392.jpg耕地整理とは、明治期に制定された耕地整理法で全国的に動き出した土地改良事業のことで、同法の目的は国の補助・融資の下、生産力を高める為、地盤改良はもとより農道や用排水路などの整備などに取り組んだ・・・と。
で、その一環として耕地区画方形に整理した・・・と。
特に、戦後、生産効率の工場のためにトラクターが導入されたことが大きかったようで、隅々までトラクターが入れるように、一部の段々畑などを除いて、殆どの耕地は綺麗に四角に整備されました。

従って、我々が今、普通に見ている田園風景というのはすべて、この100年くらいの間に形成された風景だということですね。
つまり、それ以前は、田植えなんかも、1本1本、手で植えていたわけですから、無理して方形にしてしまう必要も無く、すべて自然の地形に沿った形で田畑は作られていたわけですね。

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その点、この、田染荘はこの画像(↑)の通り、敢えてトラクターを入れることをせず、耕地整理以前の、本来の日本の田園風景を維持しているわけです。

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(↑今でも自然の地形に沿って、区画しているのがよくわかると思います。)

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もっとも、その田染荘すべてで昔のままの景観が残っているかというとそうではなく、そのうちの小崎地区(↑)だけが、保存地区として景観を維持しているのだそうですが、ユニークなのが、毎年、一口3万円で「荘園領主」を募集していること。
領主は御田植祭や収穫祭などのイベントの参加や収穫された無農薬の農作物の宅配などのサービスが受けられるのだとか。

明日に続く・・・と思う。

親愛なるアッティクスへ
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-04-04 13:45 | 地域 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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