昨日の続きです。
最終日、ホテルをチェックアウト後、釜山市内より車で小一時間ほどの所にある片田舎の漁村へ・・・。
なぜ、そんなところに行ったかというと、ここに目指すべき主目的、機張城があるからです。
機張城というのは朝鮮式の城ではなく、豊臣秀吉の文禄慶長の役の際、日本軍が防衛拠点とするために築いた日本式の城で、いわゆる、倭城と呼ばれている物の一つですね。
(↑上の方に石垣が見て取れるのがおわかりいただけるでしょうか。)
ただ、日本に残る安土桃山時代の城跡のほとんどが、江戸時代に
徳川幕府による
一国一城令でもって完全に
破却され、破却を免れた物も、大名の威光を示す為の象徴的な物へと作り替えられたことから、実戦用要塞としての「城塞」というものが日本国内では殆ど残ってないのに対し、朝鮮半島ではうち捨てられていたことで、逆に良好な状態で残っている・・・と。
ということで、一度、機会があれば見てみたいとは思っておりましたが、なぜこの城か・・・というと、それは、ここが後に
筑前福岡藩初代藩主となる
黒田長政が築いた城だからです。
(最近、日本人観光客が増えたんでしょうね、今回は階段なども作ってありましたが、前回来たときには、まったくの小丘だったそうです。)
で、ここに登って、長政が見たであろう視線の先に想いを馳せてみると、まず、眼下には小ぶりながらも良港があり、かつ、何とも眺めが良い・・・。
(ガイドさんによると、倭城はすべて、こういう眺めが良いところにあると。)
さすがに戦国武将の戦術眼は確かだな・・・と。
さらに、ここは、重要拠点・
蔚山と
釜山の中間となる地点で、蔚山の孤立化を防ぐために確保しておかなければならない要衝だったわけで、だからこそ、長政が託されたわけですね。
で、この海を眺めていて、ふと思い出したことがあります。
長政ら、当時の日本軍将兵とは逆に、古代に
百済や
新羅などの使節団が、この海の向こうにある日本に来るとき・・・のこと。
彼らは、前もって、「使節を送りますよ」と
通達した後に来るのではなく、突然、船団を組んで訪ねてくるものだったそうですね。
まあ、考えてみれば、今と違い、電信設備があるわけではなし、航海自体が無事に行って帰ってこれるとは限らない命がけの旅だったわけですから、通達の使節自体、無事、到着するかどうかわからないわけですから・・・。
ただ、驚くべきはその使節団の内容で、中には、一度に700人くらいが、突然、訪ねてきたという記録もあるとか。
ところが、当時の日本政府にしてみれば、
大宰府からの指示も無しに、使節団一行が勝手に市民と触れあったりして、愚民によけいなことを吹き込まれては敵わないから、決して、彼らを一般市民と触れあわせるようなことはしなかったそうです。
そのために、緊急の収容の必要に迫られて
博多湾に作ったのが
鴻臚館で、ここは、
迎賓館という立て前とは裏腹に、実際には
刑務所みたいな作りになっていたと・・・。
で、最後の締めとして、今回の釜山で印象に残ったことが一つ。
それは、
「セコムしてる家が多い」ということ。
機張の海沿いの民家みたいなところまで
「セコム」のシールが貼ってありましたからね。
商魂こめ~て~♪、恐るべし、セコム・・・。
平太独白