明治草創期、新政府で勢威をふるった薩摩・長州の二大派閥・・・。
薩摩人は、新政府構築についての意見を
勝 海舟に仰ぎ、
長州人は
福澤諭吉に求めたといわれています。
二人は、まさしく、当時を代表する新時代の知識人だったでしょう。
そして、勝も福澤も、共に、当時の社会体制にあっては優遇された立場からのスタートではなかったこともあり、門閥優先の封建制度を激しく嫌悪おり、優れた能力者同士、一度出会えば、すぐに
肝胆相照らす仲であったように思えるのですが、実際には、両人の仲はあまり良好なものではなかったようで、特に福澤は、勝が維新後に栄達を得たことを批判するなど、生涯にわたり批判的でした。
この、福澤の
「勝嫌い」は、元を辿れば万延元年(1860年)、
咸臨丸での太平洋横断に始まります。
このとき二人は、
遣米使節団の一員として
アメリカ合衆国へ渡ったのですが、後に、福澤をして、「蒸気船を初めて目にしてから、わずか7年たらずで、日本人手によってのみ行われた世界に誇るべき名誉」と言わしめたほどのこの大航海も、実は、初めて経験する太平洋の荒波の前には日本側乗組員の大半はまるで使い物にならず、実際には、同船していたアメリカ側乗組員の手によって、相当の部分が運行されていたとか。
そして、この点は事実上の指揮官として、また、海軍通の第一人者を自認していた勝も例外ではなく、勝は、特に、伝染病の疑いが懸念されたこともあって、航海の大半を自室に閉じこもって終えたのに対し、福澤は、医学的知識が豊富だったこともあってか、船酔いもせず病気にもならなかったと。
この時点で、福澤が勝を見る目は太平洋の海面よりも冷たかったでしょうか。
さらに、福澤の目を厳しくしたのが、勝が艦長・木村摂津守喜毅に次ぐNO.2として、事実上の操船指揮官であったのに対し、福澤は、その、木村の従者として、自費での乗船だったことでした。
そういうと、従者待遇への不満が原因であったかのようですが、事は、勝の「上司」にして福澤の「主」である、この木村という人物に起因します。
で、この木村摂津守ですが、この人は、勝・福澤と違い、浜御殿奉行の嫡子という名門の家に生まれました。
従って、叩き上げの実力派を自認する勝からすれば、木村という男は、「名門の出」というだけで艦長の役職を与えられた唾棄すべき存在であり、このため、勝はこの航海中、木村を露骨なまでに無視・・・、というよりも、いびり抜きます。
しかし、一方で、木村にとってはこの任命は必ずしも歓迎すべきものではなかったようで、というのも資金難の幕府は任命はしたものの、出せる金はなく、従って、渡航資金はすべて自費。
木村は家宝を売り払っての費用捻出だったとか。
さらに、元々、幕臣でも何でもない福澤の乗船を許したくらいですから、身分を鼻に掛けるだけの無能な人物などではなく、航海中も外に出るときは福澤を従者として扱ったものの、一旦、自室に戻ると、年下の福澤を、自分と同じ椅子に座らせ、「師」として遇し、真摯にその意見を聞いたとか。
これなどは、「同じ価値観を持つ一級の人物同士でも、見る位置が違えば、これほどに違って見える」・・・という好例でしょうか。
従って、福澤からすれば、勝というのは、木村の人となりを見ようともせず、「ボンボンだから無能」と決めつけ、ことあるごとに偉そうなことを言うくせに船酔いばかりで何も出来ない嫌な奴以外の何ものでもなく、一方で、勝の度重なる嫌がらせにも温顔を崩すことなく耐えている木村の姿・・・。
たぶん、私が福澤だったら、たとえ、勝の学識や人物は認めたとしても、「こいつとは、一生、付き合うことはない」と思ったでしょうね。
もっとも、勝からすれば、木村はともかく、何で自分が福澤からこんなに嫌われているのかは困惑ものだったでしょうが・・・。
平太独白