親愛なるアッティクスへ
先日、書いた平太郎独白録 : ホンダの広告塔としての「本田宗一郎」の功罪是非という記事の中で、「ホンダの社員が本田宗一郎の名前を安易にセールスポイントとして使うことには違和感が残る」という内容のことを申し上げましたが覚えておられますでしょうか?
で、それから間もなく、私は佐藤正明著「ホンダ神話~教祖のなき後で~」という割と分厚い本の中で思わず、「ほぅ」と思った部分がありました。
まず、何度も申し上げておりますように、ホンダという会社は、ソニーが井深 大・盛田昭夫コンビで成長してきたように、本田宗一郎と藤沢武夫という極めて強い個性を持った二人の分業経営により発展してきた会社だということがあります。
(昭和29年(1949年)8月、藤沢さんが、初めて、盟友・本多宗一郎さんと、一緒にやっていくことを決めた日、帰宅して、夫人に、そのことを告げたところ、「あなたのような我が強い人が、人様とやっていけるわけがないでしょう」と言われたとか。)
主に、技術・広報を本田さんが担い、営業・経理を藤沢さんが担っていたと。
そのことは、本田さんをして、「おいら、会社の実印が丸いのか四角いのか見たこともねえ」と言わしめ、その一方で、ホンダの発行する
小切手や
手形は引退する前日まで
「株式会社本田技研工業 代表取締役 藤沢武夫」の名前で切られていたということが、その辺のことを如実に物語っているでしょうか。
この本でも、そのことは、「世間では二人の関係を宗一郎を
主役、藤沢を番頭役や
補佐役と位置づける人が多いが、それは明らかに
間違いだ。ホンダの社長は宗一郎だが、
実際の経営を担ってきたのは藤沢だった」という言葉で触れています。
で、この本に載っていた「ほぅ」の部分ですが、それは、その藤沢さんの晩年の言葉として紹介されていた物でした。
曰く、「あんた(本田宗一郎)は
〝ホンダ教の教祖〟の役をあたしが思った以上に、見事に演じてくれた。あれは
社外向けのイメージなのに、いつのまにか
偶像化され、社内でもそれが本物の宗一郎だと信じるバカ者どもが出てきた。企業としてこれはヤバイ。
虚像が独り歩きすれば、ホンダの
経営基盤が揺らぐ。あたしの最後の仕事は、目の黒いうちにおまえさんを教祖の座から下ろし、
等身大の姿に戻してやることだった。しかし虚像が
風船のように膨らんでしまってはとうてい無理だ。パンパンに膨らんだ風船に針を刺せば、
無用の混乱を引き起こす。問題はあんたがこの世からいなくなった時だ。やはりホンダといえども、万物流転の掟に逆らえないのではないか」というものでした。
これぞ、まさしく、前章で、私がうまく言い表せなかったホンダに感じた違和感そのものを、極めて、端的に言い表した物で、思わず、「ほぅ」という言葉が口を衝いて出た次第でした。
さすがに、常より私が畏敬の念を込めてやまぬ
藤沢武夫という人は、当事者だけに、在任当時から、しっかり、このことの弊害を認識されていたんですね。
平太独白