いつも、私は床屋(あくまで、美容院などには行きません(笑)。九州男児は床屋です!)に行くと、マンガを読みます。
で、行きつけの床屋では、少年ジャンプと少年マガジンを愛読。
が、最近では、さすがに「少年」は無理があるのか、段々と、読むところが少なくなってきました。
で、先日、いつものように床屋に行ったところ、少年ジャンプに連載されている、「DEATH NOTE」が最終回でした。
まあ、
死神と契約したことで犯罪者に
独自の裁きを科していく若者と、それを追い詰める者・・・といったストーリーなのですが、その冒頭の部分で、死神から、「死神と契約した者は天国にも地獄にも行けない」と言われた主人公が、「そんなことか。つまり、死後には天国も地獄もないということだな」と喝破するシーンがあるのですが、最終回でも、「死後には天国も地獄もない。
無だ」というところがあります。
この点で、かつて、
司馬遼太郞さんは、その著作の中で、「
織田信長という人に、
無神論という論文を書かせてみたら、さぞかし、素晴らしい物を残しただろう」と言っておられました。
確か、「信長の死生観とは、『死んだら無』というものであり・・・。」とも述べておられたように記憶しているのですが、私も、信長の死生観は、まさしく、この「DEATH NOTE」に通じる物だったと思います。
「死んだら無だ。そこには、霊魂も幽霊もない。」と。
私も、
無神論者ですので、概ね、この手の死生観には同感です。
輪廻転生であるとか、
死後の世界・・・と言った物に対しては、いくらでも、巷間言われている、その論理や定義の矛盾を突くことができるからです。
ただ、すべてを一概に否定しようとは思っていません。
どういうことかというと、まあ、
霊魂くらいはあるかな・・・と思っているからです。
では、霊魂とはなんぞや・・・。
それは、おそらく、
「意識」なのだろうと思います。
人間の肉体は滅んでも、何らかの形で、その「意識」だけが現世に留まることがあるのだろうと・・・。
そしてそれは、
「怨恨」や
「心残り」などの、現世に執着する想い、つまり、想念の強い人の意識ほど残るのではないかと思っております。
最近、聞いて、良い言葉だなと思ったものに、
「死は形を選ばない。」というものがあります。
良い言葉・・・といえば、少し、語弊がありますが、最近、考えていたことを、すっぽりと埋めてくれような言葉でしたので、思わず、そういう表現になってしまいましたが、つまり、「死」というものは、
戦死であっても、
病死であっても、
惨殺されようとも、
自死しようとも、
餓死しようとも、こと
「死」という一点に於いては変わりはない・・・ということです。
そういうと、あるいは、何らかの被害にあった遺族の方などは気を悪くされるかもしれませんので、あまり、微に入り細に入り、述べるのは控えさせて頂きますが、少なくとも、死に至るまではともかく、死んでしまった後は、痛みを感じるわけではなし、つまり、「死」という一点に於いては、自分が「無」になるという点で、悪人も善人も万人平等だと思うのです。
で、今や、日本人の寿命予測は、50年後には
100歳を超えるようになったとか・・・。
私の遠縁の人の話ですが、その方のお母さんが80歳になったときに、「私も、この後、何年も生きられないだろう。であれば、私が生きているうちに私が入る
棺桶を自分で見ておきたい」と言い出したそうで、あまりにしつこく言うので、やむなく、棺を作ってあげたそうです。
ところが、そのおばあちゃんが亡くなったのは、何と、
103歳の時だったとか・・・。
つまり、
20年以上も
入り手のない棺が、その家の
納屋にはずっと置いてあったのとだか・・・(笑)。
今度から、いつ死ぬか、はっきりさせてから棺桶は作りましょうね、御同輩・・・。
平太独白