残暑お見舞い申し上げます。最近、どういうわけか、盆に一日だけ早朝に目が覚めるときがあり・・・。
数年前、ふと、思い立って、大宰府政庁跡から、歩いて、太宰府天満宮まで行ってきました。
昼間は賑わう観光地も、早朝の時間帯であり、ほとんど、無人・・・。
(↑九州名物、「離合」(笑)。)
もちろん、両方とも行ったことはあるのですが、その間を歩くというのは初めての経験で、いろいろ、発見もあり、新鮮でした。
で、今年も、早朝に目が覚めたのですが、行こうと思っていた菅原道真が謫居した榎社(都からの赴任者の官舎のうち「南館」)は少し前に行ったし。
しばらく、布団の中で考えていたのですが、「そうだ、国分寺へ行ってみよう」と。
国分寺とは、天平時代の741年、聖武天皇が旧諸国に建立した寺院のことで、福岡県には筑前国分寺と筑後国分寺と豊前国分寺があります。
このうち、私が行ったのは筑前国分寺ですね。
(↑国分寺跡には基壇が再現されているが、瓦で造られているのは興味深かった。ちなみに、草履でここに上がったら、足元がびっしょりに。福岡はこの時点で、もう一ヶ月近く雨が降ってなかったはず。なのに、しっかり、朝露が降りてる。盆地なので寒暖の差もあるし、農産物には適してるだろうなと思った。)
国分寺は、正確には、男僧の国分僧寺と、尼僧の国分尼寺に別れており、せっかくならと、国分尼寺跡にも行ってみたのですが、ここで思ったのが、「なぜ、この場所なんだろう」と。
(↑国分尼寺跡。現在は農地になっており、礎石が一つあるだけと。)
確かに、国分僧寺からは近すぎず遠すぎずの実に絶妙な距離なのだけど、国分僧寺と比べ、あまり平坦ではなく、全体に勾配がついている。
ここに寺を建てるなら、まず、造成から始めなければならなかったはずで、いくら太宰府が盆地とはいえ、もっと平坦な土地はあったのではないかと。
水の確保なら井戸を掘れば良かったはずで。
で、思ったのが、もしや、両側に堀があったのではないか?と。
(↑今もため池から、勾配を利用して、こういうきれいな水が・・・。)
ただ、筑前国分尼寺に限ったことでもないでしょうが、大宰府政庁に近い国分僧寺と違い、こちらは外れに位置するわけで、当時はこんな所、夜は真っ暗では?
堀があると言ったところで、尼僧ばかりがこんな所にいたんじゃ物騒で仕方ないはず・・・。
と言って、尼寺に警護の兵を入れるわけにもいかず・・・。
で、目についたのが、この国分尼寺跡の横にあるこの丘(↑)。
勾配を利用して堀で囲んだ上で、ここに一定の兵力を駐在させ、睨みを利かす・・・だったのではないかと。
もっとも、「狼を追って虎を招き入れる」結果になったようにも思えるが。
(↑古墳。帰ろうとして気付いたが、完全に道路で削られてる。こういうの見るたびに思う。道路を少しずらせないものかって。)
平太独白