今年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」。源実朝暗殺に近づいているようですが、私はあれは公暁(私は「くぎょう」と習いましたが、今は「こうぎょう」と読むんですね。確かに、僧籍にある者の名としては、そっちのほうが正しいような。)の単独犯、それも、後ろ盾であるはずの三浦義村の冷たい反応を思えば、かなり、突発的なものだったのだろうと思っています。
公暁は、ちょっと精神的に、おかしかったんじゃないですかね。
その意味では、事件というよりは事故に近い出来事だったのでは。
(↑公暁が隠れていたという伝説の松の辺りから見た鶴岡八幡宮。後世の作り話のようですが、まあ、気分だけ(笑)。)
源頼朝没後の鎌倉幕府の実権は北条義時にあったと言われますが、私は義時ではなく姉、北条政子にあったと思っています。
つまり、「義時が主で政子が従」ではなく、「政子が主で義時が従」で、義時は政子の意を具現化した実務家だったと。
頼朝、政子、義時の関係は、天武天皇と持統天皇と藤原不比等の関係に相似する・・・と言えば、わかりやすいでしょうか。
(古くから、不比等天智天皇御落胤説もありますから、そうなると、持統天皇と不比等は姉弟。)
あんなもの、「尼御台」という、御家人を超越した存在があってのこと。
さらに、政子は、「女」という、御家人間の序列には縛られない、各家の母や妻たち「女」のネットワークを握っており、義時だけでは到底、あそこまで御家人を統御することはできなかったでしょう。
(↑源実朝墓。)
さて、それはさておき、義時晩年の子供、北条政村登場でしょうか。
ここから、往年の大河ドラマ「北条時宗」で、伊東四朗演ずる政村が、執権になって、「母上、やりましたぞ。政村、ついに執権になりましたぞ!伯母上への無念・・・」と言って踊るシーンに繋がったんだと思うと、なぜか、勝手に感慨深いものがあり。
(正確には何と言ったか覚えておらず、初めて、オンデマンドとやらで「北条時宗総集編」見てみたのですが、肝心の所だけがカットされており・・・。せっかく金払ったんだから、全部、見ようと思いましたが、あまりにもくだらなさすぎる展開に辟易。当時の大河ドラマの主人公は、見事に「うOこもおOっこもしないような人」ばかりでしたね。最近はこの悪弊がだいぶ改善されましたが。)
ただ、このドラマでは、政村はずる賢いだけの人として描かれてましたが、実際には長老格として、この後の北条執権家を支えたようです。
この点は、創始者ヌルハチが基礎を築き、息子ホンタイジが基礎を固めるも、ホンタイジ没後、幼帝を支え、中国全土に覇を唱えたヌルハチ晩年の子、摂政王ドルゴンを想起します。
北条執権家も、事実上の創始者・義時が築き、長男泰時が基礎を固めるも、泰時没後、経時、時頼と若い執権を支え、北条家の覇権確立に功績があった義時晩年の子、政村なわけで。
ただ、父、義時没時点では、既に、23歳年上の長兄泰時が承久の乱で活躍するなど、盤石の働きを見せていたにも関わらず、政村の母、伊賀の方が自らが継室であったことを理由に、泰時を廃し、政村を執権にする陰謀を企てたとして、伊賀の方は伯母政子の命によって流罪となっています。
伊東四朗演じる政村が「やりましたぞ、母上」と言っていたのは、この辺のことですね。
その政村には北条家累代の名乗り「時」が無く、代わりにあるのが、伯母政子の「政」。
祖父時政の「政」と烏帽子親の義村の「村」だと言われていますが、元服した年は和田合戦が起こった年ですから、この時点で、時政は既に追放されており、わざわざ、一文字をとる必要もなかったような。
まあ、「政村」を名乗った時点では、まだ、政子もその母を追放するとは思ってなかったでしょうが、あるいは、政子がこの子の後ろ盾になる!という暗黙の意味もあったのかなと。
政村は、蒙古襲来の前年、文永10年(1273年)、69歳で死去していますから、もう、この時点で、政子、義時は既に伝説上の人物だったでしょう。
小田原北条氏滅亡の前年に亡くなった始祖、伊勢新九郎(北条早雲)晩年の子、幻庵を見るような。
平太独白