前回の続きです。
まず、当時、なぜ、平家が彦島にいたか・・・ですが、この時点で、既に、源氏軍総司令官・源範頼に、北部九州側の拠点を攻略されており、そのため、彦島が、日本で唯一、平家が地面を踏める場所となっていたということがあります。
つまり、もう、「詰んだ将棋」で、勝負はついていたということですね。
(↑平家方北部九州拠点、山鹿城よりの景。かつては遠賀川の河口に睨みを利かせた城も、今では海岸線も伸び、往時の雰囲気を感じさせるのは、辛うじて、この一枚のみ。城主・山鹿秀遠は、寿永2年(1183年)の平家の都落ちの際は、安徳天皇を始め平家一門を迎え入れ、範頼に攻略された後は、彦島へ扈従。最後まで平家に忠節を尽くし、壇ノ浦の戦いでは平家方の主力として奮戦しています。)
そういう状況であれば、おそらく、彦島に逼塞を余儀なくされた時点で、清盛以来の郎党も平家を見限って逃亡する者が相次いでいたと思われ、兵力はわずかなものとなっていたはず。
つまり、この時点で、もう、両軍には致命的なまでの兵力差が生じており、そのことは、平家が島全体での防衛を諦め、海に討って出ることを前提に根緒城を築いたことが、何より、雄弁に物語っているのでしょう。
で、私が疑問に思うのはこの点で、まず、なぜ、平家は壇之浦に討って出たか・・・です。
結論から言えば、やけになっていたとしか思えません。
兵力が乏しく、到底、彦島での防戦は無理と思ったとしても、再び、鹿島城へ戻るという選択肢もあったでしょう。
(↑鹿島城よりの景。今は水田が広がっていますが、往時はここは入江だったと思います。)
大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」でもわかるように、源氏もそうそう一枚岩でもなく、御家人たちをまとめていくのは大変だったようですね。
そのことは、兄、源頼朝以上に、現場にいる、範頼、義経兄弟の方が身に染みてわかっていたはずです。
さっさと決戦を挑んで、鎌倉へ凱旋しないと、軍が崩壊する・・・と。
もちろん、鹿島城にも抑えの兵力は置いているでしょうが、来るかどうかもわからない空き城に、早く帰って恩賞に預かりたい坂東武者を張り付けておくことはなかなか難しい相談で、おそらく、形ばかりの兵力しかなかったでしょう。
そして、戦果もなく、関門海峡を船に揺られて行ったり来たりするだけの状態が続けば、不満が高まることは有り得ることで、何より、渡海のための船がそう都合よく調達できなかったでしょう。
ただ、一方の平家方は女子供も同伴の、「武田勝頼の天目山的」な状態であれば、再び、鹿島城へ!と言ったところで、「もう、よろし。皆で、大相国(平清盛)様の元へ参りましょ」となったのではないかと。
そう考えれば、平家は討って出るにしても、なぜ、わざわざ、関門海峡を越えて、壇ノ浦へ進撃したのか?ということの説明も付きます。
関門海峡という所は、一見すると川としか思えないほどに狭く、従って、流れは速く、かつ、複雑で、今も、水先案内人が乗船しないと航行できないような難所で、そのことは、少し前に、自衛隊の軍艦がどこかの船と衝突して、物凄い炎が上がったことでもわかるでしょう。
(↑門司側旧帝国軍砲台跡より見る関門海峡。)
であれば、平家としては、なおさら、大軍を狭隘地に誘いこみ、大軍の利点を生かせないようにして戦闘するのが兵法の理。
ましてや、敵は海戦に不慣れな源氏軍であり、複雑で早い潮流の関門海峡であれば、源氏軍は船にしがみついているだけで精いっぱいだったはず。
考えられるのは、範頼率いる源氏陸上部隊からの遠矢を避けるために、陸から離れた部分、つまり、海峡が広くなった部分で戦う必要があったということでしょう。が、それには、範頼が壇ノ浦に来ているということを平家が知っている必要があります。
電信設備もない時代、リアルタイムで源氏の部隊の正確な位置を知ることは、平家どころか、別動隊を率いる源義経にも、不可能だったはずで、(陸上を源氏に押さえられている以上、手旗信号や狼煙も不可能だったでしょう。)それどころか、義経は、不仲の兄、範頼に作戦意図を伝えてきたようにも思えません。
範頼軍は彦島の対岸にいて、平家水軍が関門海峡側に向けて出撃するのを見て、東に移動したとも考えられますが、大部隊の移動はそう簡単ではなく、もし、海峡の手前で平家軍がUターンして戻ってきたら、源氏方はもうこれだけで大混乱に陥ったはずで、少し無理があるような気がします。
(↑根緒城よりの景。現地は一般には開放されておらず、グーグルマップからの景。いやはや、便利になったものです。で、手前は三菱造船所の埋め立て地。左のアーム二本の間に見えているのが関門海峡。ここからだと、そこに源氏水軍が集結しているのが見えたと思われ、逆に、右手から伸びてきた九州側山塊の陰になって、範頼軍の壇ノ浦着陣は見えないということになります。ちなみに、右の海中にある島が海の難所・巌流島。)
おそらく、範頼軍は、鹿島城から移動してきて、たまたまそこにいたのだと思います。
あるいは、このときの水軍の主体は豊後(大分県)だったとも言いますから、本州側へ渡海するために、ここに集結していたのかもしれません。
で、それを見た義経が、ここを決戦場にしようと思ったということではなかったかと。
範頼としては、ここまで来て、義経が渡海のための船を寄こさず、その船を使って、海上決戦を挑もうとしているスタンドプレーに困惑したでしょう。
次回に続く。 平太独白