大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」での菅田将暉くん演じる源義経、ついに、最期を遂げましたが、最後まで、白眉だったと思いますね。おそらく、大河ドラマの義経史上、最高の義経だったと思います。
で、そこまで考えて、「はて、大河ドラマで印象に残る義経って誰がいたっけ?」と。
(↑伝義経の兜。)
源頼朝は「草燃える」での石坂浩二さんのイメージが強いんですが、このときの義経は確か、国広富之さん。正直、石坂頼朝に隠れてしまって、あんまり記憶に残っていません。
で、義経と言えば、初代の尾上菊五郎 (7代目)さんは正直、私も覚えていません。
(私の記憶にある最初の大河ドラマは「天と地と」からです。)
そうなると、やっぱ、昭和47年の「新・平家物語」での志垣太郎さんかなぁ・・・と。
で、そこまでさかのぼったところで気が付きました。
そもそも、義経役は今回の菅田くんも含めて、わずかに7人しかいないんですね。
まあ、そもそも、源平時代自体、毎回、戦国と幕末ばかりだとマンネリになるので、他に挟むの無いしって感じで採りあげられてる観があり、したがって、元々、分母も小さいんでしょう。
(↑伝義経の鎧。確かに、小柄なのですが、当時の人の体格を考えると、それほど小さくもないのかなと。義経が小柄ではなかったか、それとも、義経の物ではないか・・・でしょうか。)
で、「鎌倉殿の十三人」の義経で一つだけ思ったのが、鎌倉攻めの戦略を北条義時に開陳する場面。
あれ、「炎立つ」(1993年)での野村宏伸くんも同じようなこと言ってましたが、何か伝承でもあるんですかね。
私は、当時、それを聞いて、「おいおい、そりゃないよ」と思いましたよ。
菅田義経も野村義経も、船で太平洋岸を南下し・・・というものでしたが、机上の空論以外の何ものでもなく、私は、明治2年(1869年)に、旧幕府軍艦が新政府軍艦隊を襲撃し、惨敗した宮古湾海戦を想起しました。
(このときも、旧幕府側艦隊は当初、3隻で襲撃の予定だったのが、暴風雨に巻き込まれ、結局、到着した1隻で襲撃を敢行。あっさり、敗北を喫しています。)
ましてや、当時の操船技術では、絶対、無理。 確かに、義経は屋島の戦いの折、嵐の紀伊水道を渡った実績がありますが、それとは、距離も海洋も比べ物になりません。
1隻ならともかく、最低でも屋島同様、5隻150騎の船団が、石巻から出航したとして、房総半島を回って三浦半島沿いに北上し、鎌倉まで400km、屋島の10倍近い距離ですよ。
今でも、仙台~名古屋間のフェリーが24時間近くかかるみたいですから、単純に石巻~鎌倉は10時間。
仮に、ぎりぎりまで陸地を南下し、いわきから出航したとしても、250km、単純に6時間でしょうか。
(距離、時間は、かなり、ざっとした数字です。そもそも、仮定の話ですから、十分でしょう。)
これを親潮に逆らい、風力と人力で漕いでいくわけですから、途中、敵地に何泊しないといけないんだって話。
それどころか、実際には、まず、出た瞬間に親潮に流されて、三浦半島ならぬ、カムチャツカ半島行きでしょう。
もう一つ、野村義経も言ってましたが、「内応がある」って話。
いや、これも、いざとなれば「話が違う」なんてことはよくある話で、そもそも、こんなあやふやな話を前提に作戦を練る時点で凡将以下。
それ以前に、義経の特徴は軍事的才能にあるのであって、こういう調略の類は元々、計算にすら入っていなかったでしょう。
平太独白