今週の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」、菅田将暉くんの源義経の演技、特に、最後の、北条時政から「『経験も無いのに自信も無かったら何も出来ない』とあなたは言ったが、自信をつけるのに何が必要か、それは経験じゃ。まだまだこれから」と言われたときの立ち去り際の表情は、もう、最高でしたね。一瞬の表情だけで、これほどまでに、惹きつける俳優もそう記憶にないですよ。
もっとも、実際には鎌倉殿(源頼朝)の後ろ盾として影響力を強めたい北条氏にとって、義経失脚は歓迎する事態だったわけで(私は少なからぬ部分、時政の暗躍があったと思っています。)、それほど、温かい言葉をかけたようにも思えませんが。
(功績を上げ過ぎた将軍が排除されるという構図は、古代ギリシャ・ローマや、春秋戦国の昔からあるわけで。)
で、今回は菅田義経に敬意を表し、壇之浦合戦について述べてみたいと思います。
壇ノ浦の戦いとは、関ケ原、鳥羽伏見と並び、日本三大会戦の一つに数えられる日本史に残る一大戦闘ですが、先日、NHKで最新の研究結果をやってましたよね。 これ見て思ったのが、やはり、平安末期というのは、中世と古代との境目で、まだ、わからないことだらけなんだなということ。
これまでの、「東向き潮流に乗った平氏軍が会戦当初は勢いに乗って攻め立てたが、苦境に立った義経が本来は違反である漕ぎ手の射殺を命じたことで、攻撃が停滞。その間に潮流が変わり、源氏が逆襲に転じた」という単純なものではなく、「壇ノ浦付近では複雑な潮流が渦巻いており、平氏船団が漕ぎ手を失って漂う間に、九州側陸地に流れ着いてしまい、源範頼率いる源氏陸上部隊の矢の射程距離に入ってしまった」というものでした。
なるほど、それで間違いないんでしょうね。
(ちなみに、最近の表記では「平家と源氏」とされますが、本来、平家には源家、源氏には平氏であるはず。何でかなあと思っていたら、人から、「平家物語と源氏物語から来てるんじゃない」と言われ、なるほどと。なので、私は「源氏」には「平氏」で通したいと思います。)
ただ、どの程度、源氏側にこの辺の潮流まで含め、総合的に考えた上での、陸海協調作戦があったのかはいささか疑問です。 まず、義経と範頼は兄弟とはいえ、あまり、しっくりいっていたようでもありません。
範頼はいつも本隊の主将として、敵主力を引き受け、苦労して戦いながらも、美味しい所は全部、義経に持って行かれたことで、面白くない感情はあったでしょう。
事実、九州側平氏軍基地を攻略し、平氏を下関の彦島に押し込めたところで、義経派遣を知り、頼朝に抗議しています。
(↑九州側の渡海地点、芦屋鹿島城より見た海浜。もちろん、今は別に漁港があるのだけど、地形は変わっているはずで、当時はこういう浜へ乗りつけていたのかも。ちなみに、渡海最短距離の関門海峡は流れが速くて複雑。後年の大内、毛利の大軍も、関門海峡を渡ることはせず、迂回して、この芦屋から上陸、撤退しています。)
そして、何より、電信設備が無い時代、互いに協調作戦をとることも、それほど簡単でもなかったでしょう。もし、ある程度、出来ていたのなら、それを実施、いや、考慮したこと自体が源氏の最大の勝因だったでしょうが、おそらくは、協調意図などはなく、バラバラに戦っているうちに、たまたま、源氏側に良い形となったというものだったと思います。
戦争に限らず、人のやることは案外、そんなもんです。
一方、平氏方は範頼に九州から叩き出され、彦島に逼塞を余儀なくされてた時点で、もう、滅亡は決定的となっており、そのため、壇ノ浦では、本来、非戦闘員であるはずの安徳天皇を始め、平清盛夫人なども、戦場へ出て来ており、これが、三種の神器ともども、入水に繋がったというのが、これまでの私の認識でした。
この点は、義経も、誤算だったでしょうね。
(↑彦島の高台から望む関門橋。この位置からだと、源氏軍の襲来は見えないわけで、おそらく、途中の山から、手旗信号なり、狼煙なりで知ったのでしょうが、私が思うのは、なぜ、関門海峡のこちらがわで待ち受けなかったかなということ。関門海峡は通るだけで、かなり、漕ぎ手に熟練が求められるし、狭い所から出てくるものを広い所で待ち受けるというのが、地の利を活かした戦術だったはず。)
平太独白