日本資本主義の父・渋沢栄一は、天保11年(1840年)、武蔵国榛沢郡(現埼玉県深谷市)血洗島村の豪農に長男として生まれた。栄一は、当時としては記録的長命の91歳まで生きた人だけに、どうしても晩年の神様イメージで見られるようだが、彼の孫で大蔵大臣、日銀総裁を務めた渋沢敬三によると、「80歳を過ぎた頃から、特に、この世の人ではないような独特の境地に達していた」という。
いわゆる、「解脱」というものか。
この点、元日本商工会議所会頭・永野重雄は、晩年の栄一に接した経験を持つが、その永野によると、「私が会った頃の渋沢さんは、腰は低いし、優しいし、親切だし、もう、神様みたいだったが、若い頃の写真を見ると、今にも掴みかからんばかりの面構えだった」と。
つまり、晩年の神様イメージで見られがちの栄一だが、その実、若き日には、高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちをたくらむなど、なかなかに血の気が多い、立派な坂東武者の一人だったということになる。
(↑たびたび、襲われた英国公使館。)
この点で、「武者は坂東に限る」と言ったのは、新撰組局長・近藤勇であるが、武者というものは政府に任命されてなるものでも、刀を差したからなるものでもない。
今も北関東では妙にヤンキーが多かったりするが、そういう、都会の人から見れば、野暮ったいような土着の暴力性、これこそが、坂東武者の原型なのである。
そういう連中が古くは、平将門や悪源太義平などに付き従い、幕末期には、国定忠治、近藤勇、土方歳三、そして、渋沢栄一という形となって現れたと。
こう言うと、ヤンキーと一緒にするなんて・・・と言う向きもあるかもしれないが、実は坂東武者が牙をむいていたのはそれほど昔のことでもない。
血洗島はまだしも、近藤や土方らを生んだ多摩地区では、昭和30年代までは、普通に刀を差した「三多摩郷士」と呼ばれる人たちが闊歩していた。 その、三多摩郷士だが、彼らがどれほどに危険な連中だったかを示す話がある。
河野太郎自由民主党広報本部長の祖父・河野一郎は、「行ったら生きては帰れない」と言われたソ連のクレムリン宮殿に単身乗り込み、親玉のフルシチョフと机を叩いて論争、吉田茂をして、「世界三大嫌いなやつの一人」と言わしめたほどの剛腕政治家だったが、その彼が、小田原で初めて選挙に出たとき、三多摩郷士を抱えている対立候補の地元へ遊説に行く際には、支援者は運動員の早稲田の学生にはそれぞれ日本刀を一本ずつ渡し、さらに、車の中には機関銃まで用意していたという。
こう言うと、「大げさな!」と言われるかもしれないが、この話のネタ元は彼の「自伝」であり、当時それを読んだ人たちから「大法螺吹き」という非難がなされたという話を聞かない。