渋沢栄一は、宿敵、三菱の岩崎弥太郎との死闘の最中、妻・千代をコレラで亡くしたが、栄一の嫡男篤二はこのとき10歳。普段、家にいない父が看病に帰ってくるのが嬉しかったと、何ともいじらしい言葉を遺しているが、その父は翌年、あっさり再婚。
栄一としても地位ある身。
いつまでも独り身というわけにはいかなかったのだろうが、これにより、篤二少年は新婚の姉夫妻に養育される身となる。
ただ、姉もこのとき、まだ19歳。
責任感の塊と化したのはいいが未熟は否めず、一方、その夫はまじめ一筋の東大法学部教授。
肩書だけなら、理想の環境のように思えるが、「立派な物だけ見せておけば立派な人に育つ」というのは早計。
篤二は熊本の五高に進学するも、金銭がらみの女性問題を起こし中退、遊興三昧に入ってしまう。 しかし、23歳で公家の娘と結婚。
翌年、長男誕生で、このまま落ち着くか・・・と思われたが、39歳のとき、新橋の芸者と暮らし始めたことが新聞に面白おかしく報じられ、曲折の末、41歳で廃嫡。
妻子と別居し、芸者との生活を選ぶ。(とはいえ、女中を何人も雇えるほどの生活費が栄一より出ていた。)
結局、篤二は、昭和6年(1931)、栄一死去の翌年に、後を追うように死去と・・・。
ただこれ、実はアメリカの発明王エジソンのところがまったく一緒でして・・・。
エジソンは、1871年、24歳のときに結婚。 二男一女をもうけるが、1884年、長男、トーマス・エジソン・ジュニアが8歳のとき、妻が死去。
残された息子の養育は伯母に任せ、2年後、エジソンは再婚。
やがて、成長したジュニアは「エジソン二世電機会社」を設立するも倒産。
さらに、怪しげな連中に「エジソン二世化学品会社」の名義を貸し、詐欺で訴えられたことから、エジソンはやむなく、「エジソン」名の使用禁止を求めて「エジソン二世化学品会社」を告訴。
エジソンというのは屋号ではなく姓であるから、まさしく、日本でいうところの廃嫡に相当するであろう。
その後、ジュニアは農場を買ってもらい、農業に専念するよう言われる一方で、多額の仕送りを受けるも、酒に溺れ、エジソン死去の4年後、60歳で自殺。
篤二とジュニア、二人ともまるで幼い頃に父と生き別れになった子が、終生、父親の影を慕い続けたような・・・、まあ、実際、生き別れになっていたのだろうが・・・。
ちなみに、年齢的には、エジソンは栄一の7歳下だが、死んだのは栄一死去の前月。 つまり同世代であり、また、両者、しっかり面識もあったとか。
日米、国は違っても、これが、この時代の偉人の子の一つの形だったのかもしれない。
平太独白