「渋澤栄一の家系図には立体図がいる」と言った人がいます。つまり、彼の家系図には先妻後妻の子の他に、渋沢を名乗らせていない子供もおり、実際には公式発表の倍もいたという話も。
で、それらを踏まえた上で、「人は生命の危機に陥ると子孫を残そうとする本能が働く」といいます。
この点は、そういう事例はたくさんあるのですが、生々しいので敢えて申しません。
が、ただ、安全なところに身を置いている我々現代人が軽々に言うことでもないのではないかな?と。
事実、栄一は他の志士ほどではないにせよ、それでも何度か危険な目にあっており、特に、一番危なかったのは、新撰組と一緒に捕縛に行ったとき・・・でも、兜町で馬車が暴漢に襲われたとき・・・でもなく、実は中国でして。
この話をするには、山座円次郎という人について話さねばなりません。
山座は、筑前福岡藩の足軽の次男として生まれ、苦学しながら、明治25年(1892年)、東京帝国大学法科を首席で卒業(同期は、夏目漱石・正岡子規・南方熊楠・秋山真之ら)、外務省に入省。
(↑山座の墓だけは他の墓と違う方向を向いています。墓が向いている先には何があるか。福岡藩主、黒田家の墓があるんですね。)
(↑幕末の福岡藩主、黒田長溥の墓。)
その後、明治34年(1901年)、若干36歳にして政務局長に抜擢。(いくら明治とはいえ、空前にして絶後。この先も塗り替えられないのでは?)そのあまりの有能さ故に、「山座の前に山座なく、山座の後に山座なし」といわれたと。
日露開戦の際には、宣戦布告文を起草。
ポーツマス講和会議では小村寿太郎外相を支え、その後、大正2年(1913年)、まだ大使がない時代の駐中国特命全権公使として、辛亥革命後の中国に赴任します。
翌年、そこへ、中華民国大総統・袁世凱の招きにより、栄一が訪中してくるんですね。
さすがに、栄一訪中となれば、現地公使館のトップが出迎えないわけにはいかない。 ところが、山座はこのとき、すでに(?)病気で寝込んでいたため、代わりに30代の部下をやったところ、その部下が急死。
やむなく、病気の山座が出かけていったら山座も急死(享年48歳)、さらに、74 歳(今なら94歳?)の栄一まで意識不明の重体となってしまったそうで、一行は栄一が意識を取り戻したら、青くなって帰国したと。
ただ、私は本来、こういう毒殺説とらないんですね。
「病死=毒殺説」と同じで、キリがないからです。
しかし、この事件だけは毒殺で間違いないでしょう。
これは、孫文支持の山座を狙った袁世凱による犯行と言われており、栄一はたまたま巻き添えを食っただけだったのでしょう。
ただ、犯行はかなりピンポイントで、2階から噴霧器などではない・・・。
(私が想起したのは、オウム真理教によるVXガス襲撃事件です。)
あの時代にそんなことができたのでしょうか?と、高級官僚OBの方に尋ねたところ、あっさり、「いやいや、あるある」と言われました。
結局、表沙汰になってないだけなんでしょうね。