(↑賤ヶ岳山頂より見下ろす琵琶湖。琵琶湖ってこんなにきれいだったんですね。)
城はともかく、古戦場と言うのは必ずしもアクセスが良い所にあるわけではなく、さらに、意外とネックなのが詳細な情報がわからないということ。
なかなか、アクセス的に旅行者にはハードルが高く。
で、「賤ヶ岳はともかく、姉川はレンタカーで行くといいですよ」と教えてもらったこともあり、ちょうど、京都に所用があったもので、ならば、そのついでに・・・と思い立ちました。
で、姉川古戦場に行くつもりでレンタカー借りたら、まさかの「リフトあります」のチラシ。
しかも、高速使えば案外に近く、しかも頂上には、現地の古老がガイドで待機と、至れり尽くせりでした。
それによると、「賤ヶ岳の戦い」と言われだしたのは明治以降なんだそうで、確かに、実態としては「余呉湖畔の戦い」と言うべきだと思いましたね。
(↑賤ヶ岳山頂より望む柴田方陣営。)
柴田方はこの向こうの山頂に布陣しており、まさしく、当時の戦争は登山と表裏一体と覚えけり・・・ですね。
敵将・柴田勝家の陣はちょうど、この正面の山だったようですが、ここは勝家の本拠、越前北の庄と京都を結ぶラインのほぼ中間になるらしく、かねてより、勝家の補給基地があった所だったそうですが、北国の勝家は雪で出遅れ(古老曰く、「ここは今でも、西日本で唯一、豪雪地帯の指定がある地域で、しかも、水分を含んだ重たい雪が降る所」と。)、着いたときには余呉湖をぐるりと囲む形で、既に羽柴秀吉が布陣していたと。
まあ、そこから、寝返ったり、寝返られたりがあったようですが、私が注目したのは勝家の雪による出遅れ。
古老曰く、同じく、「私が子供の頃まで秀吉の馬防柵(バリケード)が残っていた」そうですが、つまり、勝家が到着した時点で、秀吉は堅固な陣地を築き、勝家を完全に山頂に封じ込めてしまっていたわけで、秀吉としてはその間に、他の柴田方勢力を各個撃破しようという戦略だったと思います。
まさしく、「先んずれば人を制す」ですが、となると、どうにも勝家が北国に本拠を持ってしまったことは、天下獲りを望む上では致命的な欠陥だったと思います。
であれば、勝家は清須会議の折に、たとえ本拠地を放棄してでも国替えを望むべきだったでしょう。
(清須会議の時点では、まだ、完全に西国が秀吉の領地となっていたわけでもなく、もう少し主張しようはあったかと。)
勝家がそれを望んでいない時点で、老いた勝家には天下獲りの野望はなかった証拠だと思いますが、であれば、丹羽長秀のように、秀吉傘下に入ることを良しとしなければならなかったでしょう。
「気に入らないから、あいつとは別個に存在していく」はまさしく、かつて、越前の前領主・朝倉義景が織田信長にとった態度で、いささか虫が良いと言わざるを得ませんが、雪に閉ざされた静かな世界にいると、そういう心理が芽生えていくのでしょうか。
この点でも、勝家が北国に本拠を持ったことの不利を感じます。
また、そう考えれば、徳川家康がこの後も存在感を発揮し続け得たことは、年齢も合わせ、太平洋側に領地を持っていたことの意味を改めて、考えさせられます。 逆に言えば、北国を本拠とした時点で、天下獲りの「受験資格」がなかったという見方もでき、反面、加賀前田家が徳川時代に百万石もの大領を持ちながらも、存続を許されたことの背景にもなっているでしょう。
平太独白