以前、人類史上初の「世界同時多発バブル」が来る・・・と申し上げましたが、日本ではまだ、第六波が・・・とか言われているのに、世界ではもう、コロナ後に向けての既定路線が出来つつあるようですね。まあ、限られた資源を世界中で一斉に使い始めれば、インフレになるのはわかっている話で・・・。
それにしても、ガソリンの値段、上がってますねえ。
石炭がダメ、原子力もダメ・・・となると、自然エネルギーで充足させるにはまだまだ時間がかかるでしょうから、そうなると、どうしても、石油や天然ガスに殺到することになるのでしょう。
でも、そうなると、世界、特に、米中がなりふり構わず資源確保に動く中、独りロシアのみは潤うんじゃないですか。
元々、石油に依存していた国ですから、その意味では老いたプーチンには神風が吹いたのかも。
さて、先日、あまりに天気が良かったもので、佐賀県鳥栖市にある「勝尾城 筑紫氏遺跡」に行ってきました。
最初、ナビが道を間違えたのか、それとも、裏道を指示したのか、そっちのほうで行ったら、この(↓)状態。
だいたい、古城や古戦場なんかはこういう、「これ、行けるのか?」って所にあることが多いので、驚かないのですが、ここはさすがに・・・。 ふと、傍らを見れば、立ち入り禁止のイエローテープがたぐられて置いてある・・・。
少し考えた後、車を置いて歩いて登ることにしたら、二台ほど軽トラとすれ違ったので、車が離合(たぶん、博多発造語。先日、京都でも見ました。絶賛、東上中!(笑)。)できるか心配になり、戻ったら、しっかり、イエローテープが貼ってありました。
こっちも誰か来るとは思わなかったけど、向こうも誰か入ってくるとは思わなかったんでしょうね。
危ういところでした。
今年は大雨が多かったですからね。 まあ、こうならないほうが不思議ですよ。
で、仕切り直しでようやく、たどり着き、ここ(↑)。 筑紫氏は名の通り、筑紫国の豪族で、戦国時代の史料を読んでいると、よく目にする名前なのですが、如何せん、中小企業。
島津や大友、竜造寺などと比べると、まあ、あまり知名度が高いとは言い難く。
筑紫氏は元々、筑前国御笠郡筑紫の領主で、中でも、筑紫広門は、曲折あったものの、結局、大友に味方して、島津の猛攻を受け、自身も囚われの身となり、その姿を見て、人々は、「昔は広門、今は狭門」と嘲笑した・・・という話しか知りませんでした。 最終的には豊臣秀吉の九州平定により、改めて、筑後国上妻郡に18,000石の所領を与えられるも、関ヶ原の戦いで息子が西軍についたため、徳川家康によって改易。
晩年は黒田長政や加藤清正を頼り、失意のうちに没したものの、その息子が、大坂の陣で戦功を立てたことが、ずいぶん経ってから評価され、ついに、子孫は3,000石の旗本寄合席として復活、存続を果たした・・・と。
その筑紫氏が居城としたのが、勝尾城であり、その麓にあるのが筑紫氏館跡ですね。拙著「死せる信玄生ける勝頼を奔らす」でも書いたことですが、武田信玄が「人は城、人は石垣」と言って城を持たなかった・・・という話がありますが、あれは誤り。
当時の武将は、平時は麓の居館で政務をとり、有事は背後の城に籠もって戦うというのが一般的でした。
つまり、居館と背後の山城、二つで1セットというわけですね。
ここも然りで、麓に筑紫氏館があり、背後に勝尾城があるのですが、この勝尾城、初めて行ったのですが、ちょっと違和感がありました。
まず、この画像(↓)。
最初、登り始めは傍らに川はあるものの、土は乾いており(おそらく、山自体に水源はなかったのではないでしょうか。)、それがここ(↑)まで登ってくると、この通り、シダ植物が群生し始め、それと同時に、それまで、ワンワンいた蚊がピタリといなくなりました。
それから、山中、至る所にこういう巨石(↓)が残っており、さらに妙なことに杖で土を叩くと、場所によって音が違います。
これって、もしかして、山全体とは言いませんが、下に巨大古墳が眠っているんじゃないですか?まあ、専門家による調査はしてあるようですから、実際には、下にもっと、こういう巨石が折り重なるようにして埋まっており、音の違いはその間の空洞のせいなのだろうとは思います。
いずれにしても、普通、こういう巨石があれば、大名の居城の石垣に転用されそうなものですが、こんなに残っているということは、ここは対馬藩の飛び地だったのかもしれません。
で、最後にこれ(↑)。大手門への登城口ですね。
攻め手側は一列縦隊にならざるを得ず、矢弾が尽きない限り、ここを突破するのは困難な気がしますが、逆に、これ一つを見ても、ここで日々の政務をとるのは不便極まりないということがわかると思います。
平太独白