少し前(緊急事態宣言前)になりますが、ちょっと京都に所用があり、この際だからと、まだ未踏の舞鶴、田辺、福知山まで足を延ばしました。ただ、宿は京都に取らねばならず、一日しか時間もなかったので、どのコースを優先で・・・と迷った結果、天候の具合なども睨みながら、よし、一旦、先に東舞鶴まで行き、後は戻ってくるコースで行こうと。
(↑舞鶴と言えば、横須賀、佐世保や呉と並ぶ戦前の鎮守府。私のイメージもこれです。日本海海戦の時の、「皇国の興廃この一戦にあり」ですね。いうまでもなく、東郷平八郎書です。)
まあ、日本中、いろいろ行ったのですが、近畿地方の北辺と南端はむちゃくちゃ遠いんですよね。
もう、最後の秘境みたいな・・・(笑)。
で、まず、東舞鶴で下車。
(↑よくわかりませんが、舞鶴と言えば、舞鶴赤れんがパーク・・・みたいでしたので、ここへ。)
(↑普通に軍艦。まあ、これも今の時代、衛星から丸裸にされるんだろうから、もはや、この程度なら、軍事機密のうちに入らないんだろうけど。)
で、本当は海軍記念館に行きたかったんですよ。
わざわざ、他に交通機関もないので、片道30分以上かけて、とぼとぼと歩いて行ったのですが、行ってみたらまさかの休み。
また、とぼとぼと30分以上かけて駅まで戻ったので、まったくの時間のロス。
せっかくなので、舞鶴港の傍らにあった高台に登ったのですが、ここから見れば、案の定、舞鶴港は一望。
戦前だったら、間違いなく、ここから写真撮ってたら捕まりましたね。
でも、であれば、ここは軍港になる前はここに城があったんじゃないか?と思ったけど、どこにもそういう記述もなく、外れたか・・・と思いながら、降りてきたら、ぽつんと「浜村城」の碑。
ただ、それ以上の説明も何もなく、どういう城だったのかわかりませんが、いずれにしても、舞鶴港を眼下に見下ろすわけですから、何かしら、港の出入りを見張る城だったんでしょうね。
(渤海国の船が入ったのはここではないと思いますが、あるいは、もっと古い城なのかもしれません。)
で、今度は西舞鶴で下車、田辺城へ。
で、そのまま、資料館へ行き、さあ、出ようかとしたところへ、若者が立て続けに三人ほど入ってきて、「マンホールカードをください」と言っている・・・。
何?と思ったのですが、私も入場券と同時に、ご当地マンホールのカードをもらっていましたので、「あ、これか」と。
ただ、何でこれがそこまで、若い人の間でブームなのかはわからず。
で、西舞鶴を出るにあたり、西舞鶴と東舞鶴はたぶん、元は別の町だったんだなと思ったので、西舞鶴で「西舞鶴と東舞鶴はどちらが栄えてるんですか?」と聞いたら、少し逡巡して、「江戸時代はこっちが中心でしたから」と。
誰が江戸時代のことを聞いた(笑)。
で、今度は一路、福知山へ。
ただ、目的の福知山城は、もう既に閉館時間ぎりぎりでしたので、歩いて行ってては間に合わんと思い、タクシーに滑り込み、ぎりぎり間に合って何とか登城。
このとき、タクシーの運転手さんが、観光ですか?と聞くので、「朝から、舞鶴行って田辺城行って帰り」と言ったら、「どうして、先に福知山に来ないんですか?(細川)藤孝なんて最後は(明智)光秀を裏切ってから」と吐き捨てた(笑)。
目の敵にしているのは、細川藤孝ゆかりの田辺城なのか、福知山より少し人口が多い舞鶴市なのか。
まあ、福岡天神への対抗意識を消せない博多駅前人としては、とてもよく理解できる話だけどね(笑)。
(↑明智光秀ゆかりの神社。雨が降ってきたので、ちゃっちゃと流しました。)
で、帰りはこれ(↑)。 丹後の海号とか書いてあったような。
まさか、普通に乗れるとは思いませんでしたが(笑)。
平太独白