先日からの続きです。
実はすっかり忘れてました。
松崎台地に置いて、敵の大軍を目の前にした足利方。
自軍はとかえりみれば、寡兵は言うに及ばず、満足な武装すらしていない・・・。
「自害する」という主将・足利尊氏を説得し、とりあえず、自害は思いとどまらせたものの、それでも、尊氏を出陣させるまでには至らず、「とりあえず、ここで見ておいてください」で実弟・足利直義、少弐頼尚ら一部の部下だけで出撃。
ずらりと対岸に布陣した菊池武敏率いる宮方と交戦すべく、川を渡ろうと押し出したと。
「断固として血を流すことを辞さない者にはすべてが敗れる」とのプロイセンの参謀、クラウゼヴィッツの言ですが、本来、先に川を渡るのは大軍を有する宮方でなければならないのに、足利方は寡兵で、かつ、満足な武装すらしていないのに川を押し渡ってくる。
宮方の将兵らは正直、感動すらしたのではないでしょうか。
上杉謙信や前田利家が、敵に囲まれ、落城寸前の味方の城へ単身入城した際には、敵は誰も手出しすることなくこれを見送ったと言いますが、命のやりとりをする戦場では、こういう群を抜いた勇気には誰もが問答無用で感動するもののようです。
ある意味、勝敗の行方は、足利方の馬が川に乗り入れた瞬間に決まったと言っても良いのでは無いかと。
(↑立花山山頂からの景。第一次と第二次、ここでは戦場絵巻が繰り広げられていた。)
一説によると、強風により、砂塵が宮方へ吹きつけたと言う話もありますが、運も実力のうち。
砂塵が吹いたから渡河しようということではなく、敢然として渡河しようとした足利方に運も味方したということだったのでしょう。
現在の一帯の気候風土を見る限り、砂塵が舞うような感じには思えません。
まあ、今は護岸とアスファルトに覆われていますから、往時と重ねるのは無理があるのでしょうが、あるいは、その実は攻撃を命じられた宮方将兵のサボタージュの口実だったのかもしれません。
足利方は、多々良川を渡り、敵の大軍が見守る中、敵前に上陸したわけですが、しかし、有象無象に戦意は無いと言っても、さすがに敵主力である菊池隊は戦意旺盛で敢然と反撃に討って出ます。
となれば、寡兵の足利方はあっという間に押し戻され、激戦となったと。
この激戦に決着をつけたは、最期を期した直義が、松崎台地に在って未だに放心状態の主将尊氏の下へ、形見と称し、自らの右袖に着いていた錦の直垂を届けさせたことによると言われています。
(↑後年、小早川隆景が築城する名島城跡より見た多々良川。多々良川が海に出た所に位置するが、現在では住宅が建ち込んで川の位置がすぐにはわからなくなっている。)
さすがに、これを見て、尊氏も奮い立ち、自ら台地を降り川を渡って激戦の中へ突撃。
主将自らが戦線に加わったことで足利方の将兵が力を得たのと対照的に、宮方のほうでは最後尾を守っていた松浦勢が寝返ったことで、自壊の連鎖が発生。
結局、いつの時代も、数を頼りとする方は烏合の衆、大半は宮方有利の情勢を見て、菊池に同心しただけのこと。
(確かに、内心では足利氏方と思っていても、バカ正直にそれを言えば、少弐貞経のようになっていたわけで・・・。面従腹背はやむを得ない選択だったでしょう。)
結果、ついに、菊池勢は総崩れで敗走し、阿蘇大宮司惟直は戦死。
現地説明書きによると、「諸書によれば、この合戦の犠牲者は数千人に及んだと」言うが、昭和46年(1971年)に、この地に福岡流通センターが建設された際、一帯の発掘調査が行われたが、特に合戦を示す物は見つからなかったという。
この戦いの結果、九州のほぼ全域が足利方につくこととなり、完全に体勢を整え直した尊氏は一色範氏や仁木義長などを九州の抑えとして残し、再び東上。
摂津国湊川の戦いで、難敵・楠木正成を破り、室町幕府を開きますが、一方、この戦いで一敗地に塗れたとは言え、菊池氏はこの後も頑強に抵抗を続け、さらにそこへ、観応の擾乱による足利直冬の参戦でさらに九州戦線は混迷深くなっていくと。
まだ、書くことが無いわけでは無いのだけど、一応、これにておしまい。
平太独白