ちょっと間が空きましたが、先日の続きです。
つまり、18回も小競り合いが続いていたのであれば、足利尊氏望見の松崎台地は立花山城の出城として城塞機能を強化されていた可能性は十分にあるかと。
ここを城塞化することは、多々良川下流からの渡河に睨みをきかせることが出来るわけで。
ちなみに、多々良川は一級河川が無い福岡市にあっては比較的、川幅が大きな川です。
海に注ぐ辺りの幅はおそらく、福岡市の川では一番広いのでは無いでしょうか。
当時はダムなど無い時代ですから、水量も今より多かったはずで・・・。
特に兵農分離前の合戦シーズンは冬。
もっとも、両度の戦いは必ずしも厳寒の季節では無かったようですが。
(↑ちょっとわかりにくいかと思いますが、左に見えるのが多々良川下流。左から右へと流れており、その先にわずかですが博多湾が見えています。)
で、この戦いに至った立花山城争奪戦の経緯について記しておきますと、当時、大友と毛利は北部九州の覇権を賭けて激しい争奪戦を繰り広げており・・・。
まず、一旦は室町幕府第十三代将軍・足利義輝の仲介によって和が保たれたものの、所詮、「平和とは戦争と戦争の時代」という言葉そのままの一時的な均衡に過ぎず、その間にも、謀略に長けた毛利元就の浸透工作は進み、結果、永禄10年(1567年)1月、筑前の武将・秋月種実から、大友の重臣・高橋鑑種までもが毛利に靡き挙兵という形になって火を噴きます。
これに対し、大友宗麟は秋月、高橋を討伐すべく、大友自慢の戸次鑑連(後の立花道雪)、臼杵鑑速、吉弘鑑理の三家老に兵を与えて攻めさせるも、逆に、秋月勢の奇襲を受け敗北。
こうなると、筑前、筑後の国衆は動揺し、大友方の劣勢は日を追うごとに際立ってきます。
翌永禄11年1月には、大友方の筑前の重要拠点・立花山城を任されていた立花鑑載が叛旗を翻し毛利方となるも、大友が誇る三老も、毛利の援軍が到着する前に陥落させるべく、立花山城に押し寄せ、三ヶ月に渡る攻城戦の末、再び、立花山城を陥落させ、立花鑑載は自害。
すると、大友軍が秋月攻めに向かっている間に、毛利方も、「両川」と呼ばれる元就の次男吉川元春、三男小早川隆景らを送り込み、三度(みたび)、立花山城は毛利の手に。
攻守所を変えという言葉そのままのめまぐるしい展開ですが、結果、立花山城を再奪還したい豊州三老率いる大友軍と、これを阻むべく、城から打って出て多々良川付近に布陣した両川の毛利軍が睨み合う事態となります。
が、当時の多々良川河口付近は海からずっと続く干潟となっていたことから、毛利方の格好の防衛線になっており、大友方としても肝心の立花山城攻略の前に甚大な被害を出すわけにもいかず、結果、両軍は川を挟んで睨み合うことになったと。
やがて、大友勢は対陣地よりやや上流に行った所にある長尾(現在の福岡市東区名子付近)から迂回渡河することを企図しますが、ここを守っていたのが後に碧蹄館の戦いでは日本軍を率いて戦う智将・小早川隆景。
さすがに抜かりはなく、大友勢は大いに苦戦したものの、戸次鑑連自ら陣頭に立って戦う決死の奮戦により、遂に、小早川勢を駆逐し、長尾を奪取しています。
これが、巷間、第二次多々良浜合戦・・・と呼ばれるもののハイライト部分の概略です。
ということで、また次回に続きます。
平太独白