先日の続きです。
すっかり、余談が長くなりましたが、ここでようやく話を元に戻しますと・・・の前に、立花道雪こと戸次鑑連の墓(↓)です。
で、本題。
まだ要塞化される前の松崎台地に登った足利尊氏が敵のあまりの大軍に絶望し、自害を口走り、弟の直義に止められた・・・という件ですが、実はこの話には伏線があります。
まず、尊氏一行は上方から落ち延びてきたとき、満足な武装すらしていなかったらしく、出迎えた肥前国守護の少弐頼尚の父、貞経が装備品の調達をしていたものの、菊池武敏らに率いられた宮方の軍勢が少弐の本拠大宰府を襲撃したことから、貞経は自害、尊氏一行の為に用意されていた武具もすべて焼失してしまったと。
つまり、尊氏が松崎台地の上に立ち、「もうダメだ」と嘆いたとき、その彼我の兵力差もながら、満足な武装すらしていなかったわけで、素手で完全武装した10万の軍隊に立ち向かうような気分だったでしょうか。
なるほど、確かに、尊氏ならずとも、「こりゃだめだ」という気になるでしょうね。
惨めに辱めを受けるくらいなら・・・と思うのもわかるような気がします。
さらに、自害するという尊氏を諫めたのも実弟直義ではなく、足利軍に加わっていた少弐頼尚だったという話もあります。
頼尚は、既に父を討たれているのみならず、敵軍を主導する菊池武敏とは仇敵の間柄、降伏という選択肢はなかったでしょう。
両者の確執は建武の新政の直前、一足早く決起した菊池一族が鎌倉方の鎮西探題館を襲撃した際、少弐、大友も誘ったにもかかわらず、彼らは裏切り探題側について菊池氏を攻撃。
結果、菊池一族は敗退して、多くが館の一角で首を切られました。
(↑昭和の地下鉄工事の際に大量の頭骨が出土した所。識者により、この時に処刑された菊池一族の物では無いかと。)
なのに、ほどなく、中央で足利尊氏によって六波羅探題が陥落との情報が届くと一転、少弐、大友は鎮西探題を攻め、これを陥落せしめています。
菊池一族からすれば、「あいつらだけは絶対に許さん!」だったでしょうね。
(↑尊氏はこの状態のまま、宗像大社に戦勝を祈願。筑前国宗像を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて筑前国の多々良浜に進出します。この期に及んでも尊氏に味方しようとする勢力があったということは注目すべきかと。)
ということで、次回に続きます。
平太独白