先日の続きです。
建武3年(1336年)、後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏は、楠木正成や北畠顕家らと戦って敗れ、再興を期して九州へ落ちていったわけですが、九州では足利方に味方していた肥前国守護の少弐頼尚らに迎えられます。
少弐氏はその後の戦国乱世が進行するうちに滅亡したので、今ではあまり知る人も少ないと思いますが、当時は元寇などでも奮戦し、島津、大友と並ぶ、九州御三家大名の一つに数えられるほどの勢家でした。
(元々、少弐とは「次官」という意味で、鎌倉幕府が成立すると外様の御家人・武藤氏が大宰府の少弐に任じられ、以後、少弐を名乗りとしたと。)
その少弐らに先導され、筑前に入った尊氏ですが、待ち構えていたのは、宮方に味方した肥後国の菊池武敏をはじめ、筑前国の秋月種道、肥後国の阿蘇惟直、筑後国の蒲池武久、星野家能ら九州の諸豪族の大半2万騎以上。
菊池武敏に主導された宮方勢は、まず、少弐氏の本拠・大宰府を襲撃し、頼尚の父で菊地の長年の宿敵・少弐貞経を自害させます。
一方、足利勢は、宗像大社(現福岡県宗像市)に戦勝祈願した後、筑前国の多々良浜(福岡市東区)に布陣した宮方と向かい合うことになります。
(↑寒風水面を渡る多々良川。)
このとき、足利軍は約2千騎(太平記によると300)に過ぎず、尊氏は敵の大軍を見て戦意喪失、「切腹する」と言ったと伝わります。この話がどこまで本当なのかはわかりませんが、過日、時間が空いた際に、「多々良浜古戦場の碑」を見て、せっかくだからすぐ横を流れる多々良川まで行くか・・・と思い、行ってみたのですが、そこに飛び込んできたのがこの(↓)風景。
以前から、「尊氏が多々良浜合戦を前に陣を敷いたとすればこの丘だろうな」と思っていたので、一度、行きかけたのですが、当時はカーナビも無い時代、ちょっと車では入っていきづらかったこともあって、今までちゃんと行かないままでした。
なので、ちょうど時間はあるし、車はないし、ちょっと行ってみるかと。
で、この丘、画像では大したことないように見えるかもしれませんが、結構、高さがあり、坂を登りつつ、尊氏が眺めたとすればこの辺りだろう・・・と見た風景がこれ(↓)。
(川面は見えませんが、中央に走っている都市高速の手前下が多々良川です。)
この辺りは川の河口ですから、当時は、割とすぐ下まで潟と呼ばれる湿地帯が来ていたのでは無いでしょうか。
木立の隙間から見える風景は、なるほど、意外に眺めが良いなと。
腹を切ると言ったかどうかは別にして、おそらく、尊氏がここへ登ってきて敵陣を俯瞰したのは間違いないでしょう。
とすれば、この向こう、川の向こう側の平地一杯に敵兵が充満しているわけで、こちらは満足な武装も無い・・・。
尊氏が「もはやこれまで」と思ったのも無理は無いかと。
で、尊氏の実弟、足利直義はこれを押しとどめ、自ら、奮戦して菊池軍を撃破。
これにより、九州のほぼ全域を掌握した尊氏は捲土重来で東上し、湊川の戦いで楠木正成を敗死に追い込み、室町幕府を成立に漕ぎ着けたと。
ただ、これを押しとどめたのは傍らに居た少弐頼尚だったという話もあり、もし、そういう話があったとすれば、こっちのほうが本当で、直義はそれに同調したというところではなかったでしょうか。
頼尚からすれば、既に父は殺されているわけで、復仇の念に燃えていたでしょう。
次回に続く。
平太独白