親愛なるアッティクスへ
私の地元である福岡市の港、博多港は、古くは「漢委奴国王」(漢の倭の那の国王)で有名な「金印」に始まる日本有数の古い歴史を誇る港ですが、その博多港が、今のところ、最後に歴史にその名を刻んでいるのが、太平洋戦争後の引き揚げ港であったことです。
(↑光満つる海。金印発掘地より見た博多湾。)
当時、
満州に
100万人、
朝鮮半島に
90万人の
在留邦人(派兵兵士を含まない全くの
民間人)が暮らしていたといいますが、何と、博多港が敗戦後の
一年間だけで収容した人数は、
140万人と言いますから如何に博多港が終戦時の引き揚げ港としては、突出した存在であったかがおわかりになると思います。
まあ、在留邦人が朝鮮と満州だけにいたわけではないでしょうが、「引き揚げ」と言うと、
舞鶴港などが、「母は来まし~た~♪ 今日も来た~♪」で有名な
二葉百合子さんの往年のヒット曲、
「岸壁の母」の舞台となったことなどもあって有名ですが、舞鶴港は、主に、博多港引き揚げよりは、随分経ってから、
シベリアからの
抑留者の帰還の舞台となったところだと聞いておりますので、少し、意味合いが違ってくるのかもしれません。
(あ、調べて言っているわけではないので、間違っていたらごめんなさい(笑)。)
で、以前、私が、ある祖母の友人の方とお会いしたときに、四方山話のついでから、「ご出身はどちらですか?」とお尋ねしたところ、「
高崎です」と答えられました。
(「高崎」と言われて、関東の方はそれほど
違和感はないでしょうが、九州では「はあ・・・たかさき・・・ですか」となります(笑)。特に若い方ならまだしも年配の方に言われると、「そう言えば、大分かどこかにも高崎ってあったっけ?」と・・・(汗”)。)
で、よくよく聞いてみると、やはり、
群馬の高崎だとのこと。
私が、「何でまた・・・。今でこそ、羽田まで出て、飛行機ですぐでしょうけど、当時は、
新幹線もない時代ですから、来るだけで大変だったんじゃないんですか?」と問うたところ、「いや、引き揚げで、そのまま、居着いちゃって」と。
当時、引き揚げ者は、命からがら、日本まで引き揚げてきたものの、日本を統治していた泣く子も黙る
GHQ(占領軍)は、「引き揚げ者は日本の大陸侵略の
手先の役割を為した。したがって、引き揚げ者の財産は、すべて大陸の財産であり、引き揚げてきた国に
返還する」という理由で、引き揚げ者の所有している
わずかな財産さえ、すべて
没収したそうで、そうなると、博多まで引き揚げてきたのは良いけれど、今度は、博多から
故郷まで帰る旅費が無いわけで・・・。
確かに、当時は、結構、そういう方も多かったのかもしれませんね。
で、そのときに、この方が仰っておられたのですが、この方のお住まいは、今の
福岡ドームがある近くなのですが、この辺は、今でこそ、
横浜の
「みなとみらい」みたいになってますが、元々は、ここ
20年ばかりで埋め立てられた地で、私が生まれた頃は
海水浴場だった所です。
で、戦後すぐに、ちょうど、この辺りの、
沿岸の
石垣が壊れるという事件があったとか。
すると、その壊れた石垣の中から、多数の
人骨が出てきたと・・・。
となれば、当然、
時節柄(?)、「先の大戦での死者か!・・・」となったそうですが、その後、色々と調べたところ、死者は死者でも
太平洋戦争での死者ではなく、何と、
「元寇」での死者であったとか・・・(驚!)。
委細は存じませんが、
「この前の戦争」と言うと
会津では太平洋戦争ではなく
戊辰戦争、同じく、
京都では
「応仁の乱」だと言いますが、どうやら、博多では
「元寇」のようです・・・。
平太独白