先日、たまたま人を案内することがあり、ちょっと雲仙島原まで行ってきました。
と言っても、それほど遠いわけでもなし、別に珍しく無いだろう・・・と思われるかもしれませんが、実は私がここを訪れるのは、昭和48年の小学校の修学旅行以来でして・・・。
ただ、「原城跡」は修学旅行の時も行っていないので、まったく初めてでした。
原城は言うまでもなく、
島原の乱の際、一揆軍が立て籠もった城ですね。
ただ、どこの城も一緒でしょうが、往時、幕軍との最前線となったのはここから500mほど内陸に寄った島原街道の辺りだったようで、それでも、比較的周辺の地形は残っているように感じました。
乱の経緯を簡単に説明しておくと、島原藩主・
松倉勝家は島原城築城などで財政逼迫を招いた結果、領民に苛政を敷き、過酷な
キリシタン弾圧と相まって農民一揆を引き起こしたと。
この戦争に従軍した福岡藩の支藩・秋月藩主である
黒田長興の記録によると、直接のきっかけとなったのは、寛永14年(1637年)10月、領民の窮乏を斟酌すること無く、なおも重税を取立てようとする藩庁が庄屋の身重の妻を人質にとり、冷たい水牢に裸で入れて6日間苦しませた挙句、水中で出産、母子ともに絶命させたことにあると。
如何に戦国の殺伐とした気風が燻っていた時代とはいえ、あまりに酷い仕打ち・・・。
ここに領民の怒りは頂点に達し、遂に代官所を襲撃して代官を殺害。
これが日本史上最大の
民衆蜂起・島原の乱の勃発である・・・と。
蜂起は島原半島のみならず対岸の天草にも飛び火、両者は合流し、約3万7千人の軍勢となって、
一国一城令により廃城となっていた原城に立て籠もった・・・と。
(↑本丸の断崖より対岸の天草を望む地蔵。)
で、総大将に担ぎ出したのが
天草四郎時貞という少年。
一方の幕府は
板倉重昌を派遣したが、板倉の石高はわずか1万5千石余、幕府役職も御書院番頭でしかないこともあって、九州の諸侯はこれを軽んじ統制がとれなかった・・・と。
(↑天草四郎像。)
また、事実上の戦国最終戦争といえる関ヶ原の戦いから既に37年、大阪夏の陣からでも23年が経っており、戦闘の経験がある将兵は皆無に近く、討伐軍は城を攻めあぐねた。
ここに至り、幕府は
「知恵泉」の異名を持つ老中・
松平伊豆守信綱の派遣を決定。
焦った板倉は強引な突撃を行い非業の戦死を遂げる。
板倉の立場であれば当然のことであったろう。
幕府の初動の遅れの犠牲者か。
(↑鳥取藩池田家家臣として参戦、戦死するに際し、自分の名を石に刻みつけたとされる
佐分利九之丞の墓。当時としては老齢の61歳。まさしく、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の最期であったろう。)
信綱は
立花宗茂、水野勝成、黒田一成ら戦闘経験がある老将連の意見を採り入れて兵糧攻めとすることとし、さらにオランダ軍艦に要請して艦砲射撃を行わせるなどしたことから、さしも、組織立った籠城戦を展開して3か月にも及び幕軍を苦しめた一揆軍も弾薬、兵糧が尽きてきた。
ここに至り、信綱は、自ら敵兵の遺体の胃を調べ、敵に食料がないことを知って総攻撃を決意。
大坂の陣での戦闘経験がある老将は信綱のこの姿を見て、
「伊豆殿と決して知恵くらベ召されまじく候。あれは人間と申すものにてはこれ無き候」と語ったという。
幕府軍は千人もの戦死者を出しながらも、ついに一揆軍を壊滅。
幕府の記録によると、原城は徹底的に破壊され、皆殺しにされた一揆軍の遺体は原城の敷地内にまとめて埋められ、一方で、大乱を引き起こした松倉勝家は大名でありながら
斬首に処せられたという。
平太独白