危うくまた、9月を忘れるところでした。
実は連休前から、ちょっと体調を崩しておりまして、従って、連休も家でゴロゴロしていたのですが、一日だけ、ちょっとここに行ってきました。
現存する日本最古の城、
大野城跡です。
と言っても、うちから車で30分程度、太宰府の傍らにそびえる
四王寺山という所にある山城ですから、まあ、ちょっと息抜きということですね。
実はここ、もちろん、初めてではないのですが、
タモリさんも先日の
ブラタモリで言ってたとおり、
「歴史という物にまったく興味が無い福岡人」らしく、殆どの人があまり興味を持ってません。
つまり、ちゃんと整備されてないんですね。
従って、とにかく、看板はあっても車が止められないとか、中心がどこかわからないとか、行きたい奴は勝手に行けって状態なんですよ。
で、今回、病み上がりだし、時間もあるので、ちょっと行ってくるかと。
ちなみに、大野城と白村江敗戦後、大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備え、天智天皇4年(665)に亡命百済貴族に命じて築かせた城ですが、その規模たるや、後年の戦国時代の城よりも遥かに広大。
明らかに国家レベルの城だと感じさせます。
で、ここ(↑)。
鏡池と言って、山頂付近にあるのですが、いつも水が涸れることがない泉なのだとか。
おそらく、大野城の井戸だったのではないかと。
で、見れば、傍らに石碑があって、お地蔵さんがある。
はて?と思って、反対側に廻ってみました。
「鑑種、鑑豊公自忍の地」と読めるのですが、鑑種と言えば、
毛利元就にそそのかされて大友家を裏切った
高橋鑑種のことか・・・と。
確か、大友家の大黒柱・
立花道雪に鎮圧されたと記憶してましたが、この池の畔で夫人ともども自害していたんですね。
鑑豊は誰かわかりませんが、その一族なんでしょうが、人の世の悲惨さを感じさせます。
でもって、高橋と言えば、有名なのはこちら(↓)でしょう。
島津へと草木もなびく中、落日の大友家にあって意地を見せた勇将・
高橋紹運が籠もり、わずかな手兵と共に一兵残らず討ち死にして果てた
岩屋城跡です。
島津側の被害も甚大で、さらに次の攻略目標は岩屋城よりはるかに堅固な
立花山城。
籠もるは紹運の長男で父以上の名将の噂が高い
立花宗茂。
後に、
豊臣秀吉をして、
「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と言わしめた名将が眦を決して待ち構えているわけですから、さしもの剛勇・島津も矛先が鈍った・・・と。
結局、秀吉の援軍到着もあって、島津の快進撃はここに一頓挫となったわけですね。
もっとも、岩屋城は元々、高橋紹運が大友武士の意地を見せるためだけの城だったこともあり、城自体は千年前の大野城の出城程度の大きさに過ぎなかったと言われています。
で、この画像は大野城の正門と言われる
太宰府口城門跡です。
なるほど、城としての位置づけがまるで違ったわけですね。
平太独白