中国大返し。世界史的にも類例を見ないと言われるこの、200キロにも及ぶ敵前大反転攻勢作戦は常識では考えられない要素を含んでいる。
まず、絶えず生命の危険に晒されている戦場では、敵前での後退はそれだけで恐怖心から潰走に至ってしまう可能性もあり、為に、羽柴(豊臣)秀吉は自軍に「敗走」ではなく「転進」だということを明示する意味から、敵将・清水宗治を衆目の中で自害させ、その上で部隊に撤退開始を指示。
自身は遅れて、毛利との和睦を確認した6日14時より移動を開始し、途中、休養日などはあったものの7日後の13日には200キロ先の山崎にて明智光秀の軍を撃破、特に、最初の休憩地・沼城から70キロ先の拠点姫路までは豪雨の中を丸1日で走破しています。
おそらく兵士らは24時間歩きっぱなしだったのでは。
一つには、これは黒田官兵衛(如水)というよりも、おそらく石田三成の手腕だろうと思いますが、鎧や刀槍などの武具はすべて置いて裸になって走れ!ということもあったようですし、また、当時は「歩く」という行為が現代より遥かに身近だったということもあったのでしょう。 現代ならば「岡山から京都まで歩いて来た」と聞けばびっくりでも、当時の人は他に移動手段がないわけで、「だって、馬なんて持てる身分ではないし」と不思議そうな顔で答えたのでは。
つまり、歩くということは現代人が呼吸するのと同じくらい当たり前のことだったわけですね。
でも、それでも1日平均40キロ移動ですよ。
まだ、疑問氷解とはいかないような気がします。
で、ここで見過ごせないのが秀吉軍の猛烈な戦意です。
一般に1万石以上を大名というようですが、では、1万石というのは現代の貨幣価値で幾らか?
これは、時代によっても大名家によっても違い、また、公務員初任給などない時代ですから、米価なのか大工の手間賃なのかの換算基準によっても違うわけですが、大体、ざっくり1万石=年収1~10億円だと。
こういうと、底上げされた数字のように思えますが私の母方の祖先は福岡藩の下級武士で5石3人扶持・・・ですから年収100万円以下。
しかも、これより下がまだいるわけで、封建社会が如何に貧富の差が激しかったかということがわかるかと。
当然、この年収では生活していけなかったはず。(ちなみに、時代劇に出てくる江戸の同心や与力というのは足軽身分ですから、彼らの本来の年収も似たようなもので、実際には役得などの副収入に頼っていたとか。)
つまり、秀吉に従っていた末端の兵士らの多くはこういう未来に展望が描けない低所得の人たちだったわけで、それだけに、「秀吉様が天下を獲る≒俺も殿様になれる=結婚も出来る、家族も養える≒こんなのは一生で一回あるかないかのチャンス」・・・と。
走りませんか?(笑)。
つまり、秀吉軍の強さの秘密は人間の「欲」が支えていたということであり、逆に光秀ら他の武将はその辺を活かしきれなかったということで、改めて秀吉という人の人間心理の洞察力の凄さがわかるでしょうか。
平太独白