先日、ちょっと驚いたのですが多摩川って両岸にあれだけの人口を抱えているにも関わらず、人が歩いて渡れる橋って数えるほどしかないんですね。
福岡市のような中堅都市でも橋は不自由しないくらいにたくさんかかっていることを思えば、渋滞緩和や物流阻害ということ以前に災害時の避難はどうなっているのでしょうか。
多摩川も私が行った時は水量も少なく、まあ、その気になれば歩いて渡れるような気もしましたので、それほど気にする必要はないのかもしれませんが、岡本かの子はかつて、この川を「悠久の時」と呼んだといいますから、ナイル川とは比べようも無くとも、おそらく上流にダムなどもない時代、水量はもっと豊富で川幅もあり、江戸川などとは比べようもないくらいに橋の架設は技術面でも費用の面でも負担だったのでしょう。
でも、それでも今どき・・・と。
そこまで考えてふと、思いました。
もしや、人が川を不自由なく渡れるようになったのは比較的最近のことなんじゃないか・・・と。
たとえば、川幅が1mしかなくとも、もし、深さが10mあればその恐怖心たるや軽々には渡れませんよ。
実際、江戸時代までは橋といえば木造が大半だったでしょうから、「橋を架ける」というのは材木の切り出しから、加工、運搬、組み立て・・・とすべて手作業で、せっかく架けても、大雨が降ればすぐに流されてしまう、何とも割の合わないものだったことがわかるでしょう。
そう考えれば、「越すに越されぬ大井川」などと言いますが、あれも幕府が防衛のために橋を架けなかったというよりも、本音は経費面で合わない・・・ということだったのかもしれません。
となれば、川にはよほどのことがない限り、普通に橋は架かってなかったはずで、人々は渡し船や漁船などに頼み込んで川を渡っていたのでしょうが、まだ、船など無いもっと古い時代には川を渡ろうとする場合、殆どが浅瀬を見つけて渡る・・・というのが一般的な渡河の仕方だったでしょう。
ただ、そうなると、距離的にも物凄い回り道をしなければならず、さらに、真冬や荷物などがある場合などは渡るには難渋していたと思われ、つまり、現代の人が考える以上に、川は農業用水、生活用水として絶対に必要とされた反面、陸上交通という観点から見た時には障害以外の何物でも無かった・・・ということになると思います。
ちなみに、川を渡ろうとするのは当然、何も旅人ばかりではないわけで、軍勢が通過するに際しては、大体、古代ローマから日本の戦国武将まで共通するようですが、船を並べて、その上を板で固定する方法が一般的だったようです。
もちろん、船は近在の漁船を強制的に徴収し、船を繋ぐ板などの資材は近在の家などを片っ端から打ち壊して調達したようですが、戦乱の時代、庶民にとってはこれだけで済むというのは、まだ、感謝しなければならない範囲のことだったのでしょうねぇ。
平太独白