前回よりの続きです。
黒田氏の居城、福岡城よりの抜け穴が通じていたという福岡市南区の穴観音ですが、そこに赤穂浪士の墓(↓)が作られたのが昭和10年だそうで、その際、抜け穴は破壊されたのではないか・・・ということになっているようです。
ただ・・・、私はこの説には極めて懐疑的です。もっとも、では、抜け穴という物が一切、存在しないかというとそんなこともないわけで、長崎県五島列島にある福江島の福江城(石田城)には今も抜け穴(↓)がしっかり残っています。
ただ、こちらは、「日本最後の城」と呼ばれるように幕末の文久3年(1863年)に完成した城でもあり、また、そもそもが島である為、大軍が囲むことを前提にしていないと思われ・・・、つまり、保存の点でも、距離の点でも、福岡城のそれと同一に考えるわけにはいかないだろう・・・ということです。
その上で、まず、抜け穴というと、帝国陸海軍が掘ったようなちゃんと人が歩けるようなトンネルをイメージされるかもしれませんが、むしろ、福江城の抜け穴のサイズを見てもわかるように、当時の抜け穴掘削技術ではむしろ、ベトナム戦争の時のベトコン・ゲリラが米軍撃滅のために掘ったような穴を想像したほうがいいと思います。
(↑穴観音裏手からの風景。今も裏は小高い丘に成っており、意外に眺望はいいですね。)
もっとも、ベトコン・ゲリラは城攻めのために掘ったのではないので、抜け穴を蜘蛛の巣のように張り巡らせましたが、オスマン・トルコや武田信玄の武田軍などは逆に攻城側から穴を掘って城の内部に潜入しようとする戦法をとったように、迂闊に抜け穴をたくさん掘ると、それにぶつかってしまう可能性もあり、そうなると敵のために掘ってやったようなことにもなるわけです。
で、つまり、私がこの抜け穴の存在を疑問視するのが、ここまで述べてきたように、その距離と保存年数の問題なわけです。
次回に続きます。
平太独白