親愛なるアッティクスへ
先日の続きです。
菅公こと、菅原道真は一般に大宰府に「左遷」されたといわれてますが、実際には「左遷」なんて生易しいものではなく、「流罪」そのものだったそうです。
つまり、大宰府政庁に出仕していたわけではなく、軟禁状態に置かれ、かなり過酷な環境で事実上の死刑判決に等しい措置だった・・・と。
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京都は
二条城近くの
神泉苑。以前、紹介した
晴明神社と
大将軍八神社と併せ、この3地点を結んだ四角形が、平安京遷都当時に御所が在った所だそうです。つまり、菅公はここに出仕していたわけですね。いつだったか、ぶらぶらとこのポイントを歩いたことがありますが、改めて御所の大きさを実感しました。もっとも、御所跡地には普通に人家がたくさんありましたけどね(笑)。)
で、道真配流から千年の後、再び貴人がここに不遇をかこつことになります。
三条実美ら
五卿です。
(長州への
「七卿落ち」として有名ですが、長州征伐後、福岡藩お預かりとなって
太宰府天満宮に収容された時には5人になってたわけですね。)
ところが、3年間の太宰府軟禁時代、
福岡藩黒田家は
徳川幕府から、「扱いが寛容すぎる!」とのお叱りを受けたことから、その処遇を酷薄なものとしたところ、直後に
明治維新となってしまった・・・と。
で、すべてが裏目に出てしまい、これが福岡藩を
「廃藩置県前の新政府による唯一のお取り潰し藩」という形での終焉へと導くことになるわけですね。
その一方で、太宰府天満宮だけは籍奉還の際、日本全国の社寺も昔からの社領、寺領を返還する中、その後も付属領600石、約20ヘクタールの
「領土」をそのまま持ち続けることが出来た・・・と。
これは、三条卿が福岡藩から迫害された時に、天満宮の宮司が色々と懇意にしてくれたことの恩義に報いんと特例を認めたからだとか。
もっとも、その領土も戦後の農地改革で失い、残っているのは境内の一部という名目で接収をまぬかれた約5アールの水田だけだそうですけどね。
ちなみに、太宰府には、もう一人、
如水こと
黒田官兵衛孝高も住んでました(↑)。
言うまでもなく、福岡藩黒田家始祖にして、来年の大河ドラマの主人公ですね。
関ヶ原合戦後、息子
長政が太宰府がある
筑前の国主となったことから、隠居所としてここに庵を建てたとか。
この辺は、今も東京の文化人が古都・鎌倉に住みたがるのと同じ感覚だったでしょうか(笑)。
またいずれ、次回に続く・・・と思う(笑)。
平太独白