親愛なるアッティクスへ
以前、一回り上の人から、「おたくの親父さん達の世代まで、少し戦前の教育の色が残っているが、これが、うちの親父達の世代になると、もうまさしく七人の侍に出てくる百姓そのもの!」と言われたことがあります。
思えばこれは、うちの祖父には何となく思い当たる気がしますネ・・・。
以前、何度かこの作品は見たことがあったのですが、そういう目で改めてこの作品を見ると、又違った感慨があります。
百姓(庶民)とは、臆病でずるがしこく、全体のことなど見ようともせず、自分のことしか考えないし、オカミを恐れ、それでいて信用しない。
「麦秋が 黄金の色と 知りし今」
梁庵平太
(野武士は実った収穫を奪いに来たのではなく、この気高いまでの美しさが許せなかったのでは・・・とさえ思えるような景色でした。哀しいかなこの年になって麦秋の言葉の意味を初めて実感しました。)
搾取されるから、何もないと言っても自分の分だけはしっかり
確保している・・・。
まさしく、これは我々の祖父たちの世代の姿であり、ここまで極端ではないにしても
父の世代にもその傾向をみてとれるように思います。
こういう世代が今の日本を動かしている以上、この国が傾くのは当然の帰結かもしれませんね・・・。
さておき、以前、この作品を見たときは、思わず、
黒澤明という人は、この時代に生きていたのではないか?と思いました。
しかし、あの作品からは同時に
昭和29年という(収録時は27~28年ですかね)、祖父の時代の空気を感じました。
出ている俳優やエキストラも、あれはまさしく戦後の、
1960年代までの
顔だと思います。
今、あの作品を誰かに撮れと言っても、
わらの中に潜り込んで寝たことのある役者(
三船敏郎ですね。)なんていないでしょうし、黒澤作品はやはり、今となってはもう、誰も作り得ないあの時代だけの物なんでしょうね・・・。
平太独白