前回の続きです。
そんなこんなで米内光政の墓に詣でたわけですが、ここで「ほう!」と思ったのが、墓に名刺受け(↓)があったこと。
こういう形式はどこかで見たような気もするのですが、珍しいといえば珍しいですよね。
この日は暑かったこともあり、何より、こんな所で名刺が必要になるとは思ってなかったこともあって、不覚にも名刺を所持しておりませんでしたので、断腸の思いで墓に手を合わせただけで辞去し、次いで、その足で原敬の墓に詣でたわけですが、両者の距離は徒歩で10分ほどの所にあり、前回も申しました通り、岩手県は他にも
齋藤實、鈴木善幸と4人も総理を輩出している、東北では極めて異色な総理輩出県なわけで、歩きながら、この辺のことに少し思いを馳せてみました。
まず、賊軍の子弟ということに対する反骨精神が岩手にはあったのしょう。
総理にこそならなかったものの、岩手には、有力総理候補の呼び声高かった
後藤新平、「椎名裁定」で知られる自民党副総裁・
椎名悦三郎、それに、岩手県に入れていいのかどうかわかりませんが現在の
小沢一郎と総理になってもおかしくなかった人材を輩出しています。
が、何より、際立っているのは
板垣征四郎 、及川古志郎、斎藤実、栃内曽次郎、山屋他人、米内光政、多田武雄、東條英教(東條英機の実父)といった中将、大将目白押しの軍人連の顔ぶれでしょう。
確かに、賊軍の子弟ということで官界への道を絶たれ、軍人への道を進まざるを得なかったという一面はあったのでしょう。
しかし、それは何も岩手県に限ったことではなく、東北諸藩はもとより、薩長土肥以外の諸藩はどこも多かれ少なかれ同じ境遇だったはずです。
(↑原敬が眠る原家菩提寺。屋根瓦がえらくツヤツヤしていることが印象的でした。)
次に思ったのが、総理四人の年齢差、わかりやすいように西暦で行くと、原1856年、齋藤1858年、米内1880年、鈴木1911年で、年齢差はそれぞれ、2歳、22歳、31歳で一番上の原と一番下の鈴木で55歳。
ほぼ、祖父と孫の年齢差ですね。
ただ、原と齋藤は2歳差とはいえ齋藤は仙台藩出身、齋藤と米内は22歳差とはいえ同じ海軍の先輩後輩、原と米内は24歳差ながらも互いの墓が歩いて行ける範囲にある、同じ盛岡藩士族、無論、互いに面識はあったでしょうね。
と、ここまで来た所でちょうど時間となりました~で、次回に続きます。
平太独白