先日からの続きです。
んで、原敬生家を出て、徒歩で次へ向かうわけですが、その前に私にはわからないことが・・・。
記念館で聞けばよかったんでしょうが、誰か知ってるだろう・・・と思っていたのが大間違いで、結局、わからないままになってしまいました。
こちら(←)は江戸時代の盛岡城の絵図ですが、川を境に本丸、二の丸、三の丸が形成されているのがわかりますよね。
(結構、大規模な城郭だったように思います。今も、盛岡は人口30万弱の街とは思えないような雰囲気を醸し出していますが、この街は何かそういうDNAがあるのでしょうか。)
わからないのが、原敬生家がこの図の左下の図から、さらにはみ出た辺りにあるということ。
原家は前回も申しましたように藩の家老の家柄です。
つまり、家老の嫡男である原自身がここで生まれ、また、殿様のご来臨もあったということなどを考えれば、家老の別荘であったわけでもないようで、であれば、どうして家老の自宅がこんな城外にあるのか・・・と。
地元の人に聞くと、この辺はつい最近まで周囲には何も無いような寂しい所だった・・・ということでしたから、ほぼ、この絵図のとおりなんでしょう。
であれば、いくら泰平の世だったとはいえ・・・。
山賊にでも襲われればどうしたんだろう・・・と。
(↑ちょうど、上掲の絵図の左下から右斜め上に上がっている川がこの川です。つまり、この画像の左に城があるわけで、登城する原家の人々は皆、この風景を観て城に上がっていたわけですね。)
で、上の風景を右手に見ながら橋を渡り、次に向かったのがここ(←)。
米内光政の墓ですね。
(これは寺の入り口に置かれている案内用の石碑で、墓石その物ではありません。ご安心を(笑)。)
米内は
明治13年(1880年)、旧盛岡藩士の家に生まれ、海軍大将、連合艦隊司令長官から海軍大臣を経て、
第37代内閣総理大臣となった人物です。
つまり、岩手県は
原敬、米内光政、齋藤實、鈴木善幸と4人も総理を輩出しているわけです。
(ちなみに、
東條英機も出生時の本籍が岩手。)
これは西高東低の総理出身県では極めて異色で、東北の中では際立っています。
なぜ、そうなったのかは、ある意味、
山口県と近いものがあるようにも思いますが、それだけでは説明しきれないものがあるように感じております。
次回に続きます。
平太独白