昨日の続きです。
盛岡では、「主君を諌めるために一身を顧みず諫言した忠臣」という扱いを受けた栗山大膳ですが、しかし、私はこの人物には否定的です。
(↑良く読み取れないのですが、大膳を顕彰する内容のようです。)
まず、この
黒田騒動と呼ばれる事件は、何も「忠臣による諫言大芝居」などではなく、私は君臣間の不和の行き着いた先を、後から、立場が悪くなることを恐れた大膳が「忠臣」色に糊塗したものだったと思っています。
その結果として、大膳自身はここ、盛岡にお預けとなり、それなりに下にも置かない扱いを受け、それなりの矜持を保って生涯を終えられたわけで、まずは
ソフトランディングということでしょう。
(↑大膳の墓所の上にある展望台から盛岡の景色を見た後、後ろを振り返ったら、これだけの空間に日曜なのに私一人でした。軽くびっくり。何か、地元の人達は行かないような曰くのある場所なのでしょうか。)
しかし、彼は福岡を立ち退く際、
千人にも及ぶ
私兵に守られながら退去したと伝えられていますが、その家臣らのその後はどうなったのでしょうか?
彼が南部藩にお預けとなった以上、それらの家臣たちを養うことは出来なかったはずで、かといって、一旦、福岡藩に敵対した以上、もう、故郷にも帰れなかったでしょう。
(←上の画像の森で覆われた向こうにはこれがぽつんと立ってました。
「愛宕山南部太郎坊堂」と書いてありますから、かつては、ここに南部家の貴公子の僧坊でもあったのでしょうか。)
武装した家臣だけで千人いたとすれば、当然、その妻子がいるわけで、さらに、そこには一部の女官を除いては栗山家に奉公していた女性や下男などは入っていなかったでしょうから、まず、5千人からの人々が大膳の軽率な行動の陰に路頭に迷うことになったのではないでしょうか。
彼らに対する責任という点では、いくら立派なことを言っても、いささか
無責任の観は禁じ得ません。
おそらく、下々など虫けら程度にしか思ってなかったのでしょうが。
で、この展望台を後にして、次に向かったのがここ(↑)、
原敬記念館・・・でした。
次回に続きます。
平太独白