昨日の続きです。
秋田を出て、本来ならそのまま、その日の宿泊先が在る仙台に戻るつもりでしたが、仙台は福岡からだと直行便があるということもあって割りと行っており・・・。
従って、観光もし尽くしている感がありましたので、さて、どうした物か・・・と考えたとき、「そうだ、盛岡で途中下車しよう」と思い立ちました。
盛岡は正確には3度目なのですが、1回めは冷麺食っただけでとんぼ返り、2回めは夜着いて早朝に出発・・・ということで、殆ど消化不良状態でした。
で、盛岡といえば、どうしても来ておきたかったのがここ(↓)。
元筑前福岡藩筆頭家老・
栗山大膳利章の墓です。
父、
利安は
豊臣秀吉の名参謀にして、
如水の名で知られる
黒田官兵衛孝高の一の子分で、特に、
天正6年(1578年)、孝高が
織田信長に反旗を翻した
荒木村重の
有岡城に幽閉されたに際に、これを救出したことで知られます。
(←大膳碑。奥の朽ちた木に
「栗山大膳碑」の文字が見えるでしょうか。)
大膳は、天正19年(1591年)、黒田家が九州征伐後に封じられた
豊前国中津(現大分県)で生まれ、元和3年(1617年)、父の跡を継いで
福岡藩家老2万石を領すこととなります。
2万石と一口に言っても、1万石以上が大名ですから、もう、これは藩内に別に大名がいるようなもので、以前、拙著
「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を書いた際に、現在の収入に換算したところでは
年収20億円くらいになりましたから、これはもう、個人の収入と言うよりも地方自治体の税収に相当すると考えていいのでしょう。
ただし、そうは言ってもそこは封建君主ですから、どう使うかは殿様の腹一つなわけで・・・。
(↑栗山大膳父子の墓所の少し上にある展望台よりの景色。盛岡は人口30万人弱と聞きましたが、私には50万人くらいの都市に見えましたね。)
その、大きすぎる存在が、やがて、新たに福岡藩主となった如水の孫、
黒田忠之との間に確執を生じ、
黒田騒動と呼ばれる御家存亡の危機を招き、幕府裁定の結果、大膳は盛岡にお預けとなったわけですが、ここでは大膳は
「主君に諫言した忠臣」という扱いを受けたようですが、私はこの人物には少し否定的です。
次回に続きます。
平太独白