昨日の続きです。
で、上流の方の拡大図(↓)です。
くどいようですが、下(南)が上流ですね。
これを見ると、中央下付近、源流からほど近い所で一本、東方向に分岐している川がありますよね。
確か、何かで、18世紀半ばに
豊田徳作翁によって
番托井堰が石造りとなった際、同時に、
那珂川と
御笠川(当時は石堂川)を開通させる工事をしたと見たような気がしていたのですが、おそらく、これが、翁が引いた水路で、そのまま、東側を流れている
御笠川に注いでいます。
この部分がこれ(↑)で、右から左へと流れている鉢の底川から、住宅の塀で右側っへと枝分かれしている水路が豊田翁掘削による水路です。
さらに、農繁期にはそちらの方へ水をたくさん流す必要があったからか、鉢の底川の方に水を堰き止める装置も見えます。
この辺の事はまた、改めて触れるとして、そのまま、鉢の底川を辿ります。
豊田翁の水路を右手に見ながら、川は直進します。
(手前に見えているのが、その部分の堰です。)
で、川はまたしても、ここ(↑)で、道を道連れにすること無く、独り、何処かへ・・・。
やむなく、回り道をして、川の抜けたであろう方向を探すと、団地の横を抜け、こちら(↑)へと抜けておりました。
もう、この辺になると殆ど水は溜まっておらず、おそらく、市街地化が進んだ時点で生活排水を流すために川底を上げ、逆に上流の方向へと水を流す工事をしたのではないでしょうか。
川底盛り上げ工事自体は、勾配の関係でそれを行える距離には限りがあり、ここより先はこれまで通り、下流へと流すようになっているのでは・・・と推察いたします。
次回へ続きますが、多忙のため、しばらく、先送りになると思います。
平太独白