少しご無沙汰になってしまいましたが、前回の続きです。
既述の通り、鉢の底川の下流は江戸時代初期、元禄年間の地図にも記載されていますのでおそらく、遅くとも室町期には川は形成されていたのではないかと思いますが(室町時代の地図でも見たような。)、対して、番托井堰が豊田徳作によって石組みに作り変えられたのが18世紀半ばですから、この時点では既に川は存在していたということになります。
(↑鉢の底川取水口を対岸から見た物です。)
ただし、それ以前から井堰自体は丸太で造った簡易な物があったらしく、となると、必ずしも「川が先」だとも言えないわけで、つまり、簡易な堰を造ったのでその上流から水を引く川を掘った・・・とか、あるいは、堰を造ったことから、その上流部分の水位が上昇し、自然に低地に向かって流れ始めた・・・という可能性もあるわけです。
で、これ(↓)。
明治36年の対岸の村の絵図です。
(明治の物ですから
著作権などは無いと思いますが、貴重な絵図であるにも関わらず、以前見た時よりも明らかに劣化が進んでいることから、一石を投じる意味で敢えてここに掲げました。なお、一応、当方の判断で一部修正を加えております。)
下に流れているのが
那珂川で左から右へと流れており、その左端に番托井堰が見て取れますが、その上流から水路が引かれているのがわかるでしょうか。
(つまり、鉢の底川はこの絵図の下、ちょうど、切れている部分に端を発し、下の方を右手へと流れていることになります。)
ちなみに、一番上にある
「大溝」という水路は私が20歳くらいまで存在してましたので、私もしっかりと記憶しております。
で、番托井堰に話を戻すと、まず、堰の設置場所はどこでも良いというわけではなく、特に、丸太で簡易な堰を築くわけですから、そうなるとやはり、設置しやすい所・・・ということになるでしょう。
で、ご覧頂きたいのがこちらの番托井堰を写した航空写真(↓)です。
これはある意味、非常に貴重な写真でして、というのも、現在、この場所は河川工事の最中で、すっかり様相を変えてしまっているからです。
工事完了後、どの程度、現状復旧されるのかわかりませんが、少なくとも、この川中にある茂みはもうありません。
あるいは、この中洲自体、削り取られて完全に姿を消すのかもしれませんが、この場所は上の絵図でもわかるように、
「カッパ相撲の場所」とされており、そういう伝承がある所だったのでしょう。
治山治水も良いですが、もう少し、謂れや伝承にも配慮して欲しいものです。
一向に話が進まないけど、とりあえず、次回に続く。
平太独白