昨日の続きです。
鉢の底川の源を語る上では、どうしても、番托(ばんたく)井堰の存在を抜きには語れません。
番托というのは那珂川の中流域に設けられた堰でして、この井堰(いぜき)は、昔は、丸太などでせき止めていたそうですが、大雨のたびに流されたりしていたのを、江戸時代中期、18世紀半ばに堅粕村(現博多区)の豊田徳作という大庄屋が自費で石組みの堰に作り替えたのだそうです。
(↑現在の番托井堰。)
もっとも、当時、民間による土木工事は禁止されていたことから、容易に許可が下りず、その為、徳作はしつこく
嘆願申請を繰り返したことから、ついには
投獄されてしまったのだとか。
この辺は、自費で公共性の高い工事をしようと言っているのに、許可どころか、投獄されてしまうなどというのは現代人の感覚からすると、ちと、酷すぎるようにも思いますが、その後、そのことが当時の福岡藩六代藩主、
黒田綱高の知る所となったことから、急転直下、徳作は釈放され、工事にもゴーサインが出、
明治13年、徳作の功績を讃え、碑(↓)が作られたとか。
徳作が築いたこの堰はその後、
戦後まで下流域を潤し続けたようですが、やがて劣化が目立つようになり、遂には福岡市内の大部分が浸水したといわれる
昭和28年6月の
大洪水により、上流の
老司井堰とともに決壊し、翌29年に、現在の
鉄筋コンクリートの井堰が築かれたのだそうです。
で、鉢の底川の源流ですが、この堰のすぐ上流にあります。
ここ(↓)です。
源流というよりも、現在では
取水口といった方が正解でしょうか。
そこから見た番托井堰(↓)です。
すぐ、脇にあるのがおわかりいただけると思います。
次回に続く。
平太独白