昨日の続きです。
で、まず、那珂川と御笠川の間が一番狭まるこの地域の間に張り巡らされた小川・・・を地図で追っていくと、大元はどうやら、那珂川の、現在、番托井堰と呼ばれる所に端を発し、1本は御笠川へ注ぎ、もう1本はJR鹿児島本線の方向へ流れておりました。
で、その延長線上には我が地元・博多駅前、かつての下人参町地区があるわけで、「あ!これは鉢の底川なんだ!まだ、上流では生きてたんだ」・・・と気づきました。
(↑現在、
「鉢の底通り」と名付けられている
キャナルシティ脇。川は、かつて、この突き当りで再び、那珂川へ注ぎ込んでおりました。同一人物だったわけですね。)
で、今でこそ、
生活排水の為のドブ川となっているものの、おそらく、元は農地を潤す灌漑用水、つまり、
クリークだったのでしょう。
特に、戦中戦後の
食糧難の折りに、
食糧増産の為にそれらの水利は最優先で整備されたことが考えられ、それ以前とは大きく形を変えてしまった可能性もあるわけです。
ただ、そうは言っても、掘削される場所にはされるなりの理由があるはずで、一番はまず、
「掘りやすい」ということで、次いで、二番目が「どうしてもそこに水を引かねばならない何かがある場合」・・・ということだったでしょうか。
(その上で、もっと余裕があれば、各人の田の傍らへ毛細血管のように引いてくれば良いわけですから。)
そう考えれば、一番引きやすいのは一度、誰かが掘った溝で、平たく言えば、かつての堀の跡などがあれば、それを利用せずにわざわざ、一から開削するとは考えにくいわけで、従って、クリークだからと言って、すべて黙殺してしまう必要もないと思うんです。
(←往古・鉢の底川に思いを馳せる。)
もっとも、それらをあまり、安易に広げ過ぎると肝心の耕作面積の減少に繋がるばかりか、今度は
「洪水」という問題が生じてくるわけで、あまり、無闇な増設も出来なかったでしょう。
ということで、まずは我が家にある、一体の川の流れがわかる、もっとも古い地図を出して来ました。
それがこれ(←)です。
たぶん、
昭和40~50年頃の物ではないかと思うのですが、我が家が在する
博多駅前の方は、もう、当時は
博多駅地区土地区画整理によって
下人参町時代とはまったく別物になってましたが、この辺はまだ、当時はそれほど大きく開発が進んでいなかったはずで、ある程度、参考になるはず・・・と思ったんです。
(昔の
住宅地図は使い捨ての感覚なんでしょうね。どれほど探しても、年度の記載が一切ありません。)
ということで、次回に続く・・・。
平太独白