昨日の続きです。
その地禄神社ですが、裏手から入った為、表に抜けようとして、こちらにも前に小さなドブ川があることに気づきました。
この川は振り返って正面から見ると、神域を守るように川で外界と隔てられており、「那珂八幡宮が本丸なら、こちらは出丸のような砦か、あるいは城主の居館があったのではないか?」・・・と、そんな気にさせられました。
となれば、今では、通りを挟んだ別個の神社になってますが、元々は、同じ城の城域で、これらの川は山賊や野盗、流民などからの防衛の為の堀だったのではないか・・・と。
さらに、この川を辿ってみましたが、それ以上は、川は入り組んでるし、人家と人家の間の道無き部分を抜けていたりで、全体の把握は諦めて、家路につきました。
で、帰宅後、改めて、全体把握のために地図を見たところ・・・、私は大変な事実に気が付きました。
この部分は、福岡市中心部を潤す二大河川、
那珂川と
御笠川の流れがもっとも狭くなっている部分(↓)だったんです。
(ちなみに、現代では並列して走っている両川ですが、中世以前は御笠川は下流・・・、現在の博多駅付近から西に折れて、那珂川に合流していました。)
と言っても、実は
福岡市には
1級河川がありませんで、両川とも
2級河川ですので、それほど大した川ではありませんが、それでも明治期以前・・・、いや、戦後すぐまでは主な橋は木造でしたから、「橋を作る」ということは大事業の割りには、せっかく作っても、すぐに大雨が振れば流されてしまう、何とも割の合わないものだったことがわかるでしょうか。
実際、江戸時代までは
「博多」と
「福岡」の間を流れる那珂川には橋は1本しか架かっていなかったという話もあり、となれば、人々は殆どの場合、
浅瀬を見つけて渡る・・・というのが一般的な渡河の仕方だったでしょう。
となれば、
真冬や
大雨の時などは、渡るには難渋していたと思われ、つまり、現代の人が考える以上に、川は
陸上交通という観点から見た時には障害以外の何物でも無かった・・・ということでしょう。
んで、この両川の間が一番狭くなった部分を流れる川を地図上で辿っていると、そのうちの1本が私が勝手知ったる博多駅前地区の方に伸びているではありませんか・・・。
「ん、これは
鉢の底川と結びつくんじゃないか?!」と・・・。
ようやく、本題に届きそうですが、続きは次回・・・ということで(笑)。
平太独白