先日の続きです。
で、この「鉢の底川」ですが、私が子供の頃には幅1mくらいのドブ川で、その傍らを当時、「往還通り」と呼ばれた旧道が走っておりました。
(↑今では
「人参通り」という名称になっているそうですが、要は、
博多駅地区土地区画整理事業の中で、すべての区画が変えられる中で、なぜか、唯一残った
旧道なわけです。川は右端に沿ってありましたが、今でも、川の形に蛇行しているのがおわかり戴けると思います。)
この道は、おそらく、江戸時代以前に、人々が回り道を嫌い、便宜的に、この川の河畔に沿って博多の南にある
竹下村や
警弥郷村などへ抜けようとして、往来するうちに出来た道だったのでしょう。
(もっとも、拙宅があった旧
下人参町地区は、たびたび、申しておりますように、すぐに
床下浸水する低地帯でしたので、明治中期以前、人々が住み始めるようになる前は、耕地としても限られた作物しか栽培できないような
「湿地帯」で、従って、おそらく、少し雨が降ると通行がためらわれるような道だったでしょう。)
そこを区画整理の際に片側1車線の道路にする上では、鉢の底川のスペースというのは余計な物以外の何物でもなく、
「博多駅前」になることで、今後、増大するであろう交通量を考慮すれば
暗渠では持たない・・・という判断があったのだろうと思います。
結果、鉢の底川は埋め立てられ、道路の一部となってしまったことで、(前回も申しましたように、以前、道路工事の際に見たところ、暗渠ではなく、完全に潰されておりました。)他のドブ川と同様に、私にとっては、「かつて、過去に存在した川」という・・・、つまり、「もう、この世には居ない人」のような認識となっており、哀しいかな興味の対象から完全に外れておりました。
それが、先日、たまたま、運動不足解消のために散歩しようと思い、旧竹下村(いつの時代のことだ・・・と(笑)。)にある、
那珂八幡宮なる神社(↑)へと行った際、何と、上流の方ではまだ、この川が健在であることに気づきました。
それで、「この川はまだ、死んでいなかったんだ」と思い、改めて、「この川はどこに続いているのか?」という、
少年の日の果たせぬ夢の続きを追ってみようと思った次第でした。
ということで、なかなか、本題に辿り着かないけど、とりあえず、次回へ続く・・・。
平太独白