昨日の続きです。もう、いい加減にこのシリーズも終わらせなければ・・・と思っているのですが。
新府城を出て、まだ少し時間があるというので
韮崎でちょっと下車してみました。
ここは、
新府駅の隣駅ですが、元々、甲斐武田家初代当主である
武田信義の館があったと伝えられている所でもあります。

武田家は元々、
佐竹、小笠原、南部の各家などと同様に
新羅三郎義光にその祖を遡る名門で、信義の父・義清が常陸国から甲斐国に配流されたのに始まると言われています。

なるほど、この地図(↑)を見ると四方を川に囲まれ、
躑躅ヶ崎館と同様に背後に緊急避難用の山が控えているのがわかります。
であれば、この山地の突き出した部分に躑躅ヶ崎館における要害山城に当たる城があるはずだ・・・と。

見れば、
白山城跡と書いてあり、ビンゴ!と思ったのですが、地元の人に聞いたところ、「ここは、武田は武田でも
武田信玄の時代の
烽火台の為の城だ」とのことで、信義の時代の城ではないということでしたが、でも、私はこの城は元々、初期武田家の非難城であったのだろうと思います。
残念ながら、ここは
熊出没注意ということで域内に入ることはできませんでしたが、看板だけは手前に出してあり、それを見るとやはり、「信義の要害として築かれた
伝承を持つ」・・・と。
まあ、伝承の域を出ていないようですが・・・。

武田信義は、保延6年(1140年)、13歳で
武田八幡宮(↑)にて元服し、武田太郎信義と名乗り、源平の合戦においては
源頼朝に合力、
富士川の戦いから
壇ノ浦の戦いまで、一連の戦いすべてに参戦し勇名を馳せたものの、鎌倉幕府成立後は頼朝の前に一介の御家人として抑えこまれてしまう・・・と。

(↑八幡宮の傍らには、
保元の乱における源氏の英雄、
鎮西八郎為朝を祀る為朝神社が。為朝はここに匿われたという伝説があるそうです。)
おそらく、武田八幡宮は要害山城における
積翠寺のような位置づけではなかったでしょうか。
親愛なるアッティクスへ
平太独白
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