先日からの続きです。
で、その武田勝頼築城による新府城です。

まず、我々は東面(←)から上ったのですが、ここはご覧のとおり、高さがあると言っても、若い者なら一気に駆け上がれる程度であり、前面に堀を穿った跡があったものの、大軍に任せて力攻めにここを突破しようと思えば出来ないことはないような気が。
まあ、この辺はさすがに、
土塁(↓)を築き、それなりの防御設備を整えていたようですが、この階段を上がるとすぐに本丸に出てしまうことなどを考えると、少なくとも、武田勝頼が大大名の武田家に相応しい城として築いた割りには・・・と。

さらに、本丸に上がり、北回りに台地上をぐるっと一周してみると、北面(↓)に至ってはこの程度の高低差・・・。

前回掲示の復元予想図を見てもらうと、確かに、こちらにもぐるっと東面から堀が伸びてきているようですが、堀幅も東面に比べれば狭いし、それを補うためか堀の中に突出した櫓を設けているものの、少々、迫力不足の観は否めないような。

次に、二の丸(↑)を横切り、西面(↓)に出ましたが、ここはご覧のとおりの
断崖絶壁で、その向こうに
釜無川が流れており、航空兵力が無い時代、こちらからの攻撃は不可能だったでしょう。

また、南面は全体に上り勾配になっている上に幾重にも
縦深陣地を構成することで攻撃に備えられる構えとなっておりますが、であれば、この方面に敵を集めて叩く・・・というコンセプトであるべきで、それが、東面と北面、特に北面の脆弱性を考えると、少し首を傾げたくなってしまいます。
また、台地上にあるということは要害山城の項でも触れたように追い詰められた場合、逃げ道が無いことになってしまうことなどを考えれば、一見、堅城のように見えて、本気で本気でここで戦うことを考えていた施設だったのか・・・と。
おそらく、勝頼にとって、ここは領国を統治する為の政庁であって、ここで敵を防ぐことは想定しておらず、城の造りを堅固にしたのは自らの威信を示すためであったのではないか・・・と。
事実、勝頼は
織田信長の軍が迫ると聞いたとき、ここに立て籠もって戦うことを選択せず、まだ、出来たばかりの城に火をかけて、家臣の城を目指して落ち延びて行ったことが
雄弁にその辺を物語っているようにも思えます。
親愛なるアッティクスへ
平太独白
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