昨日の続きです。
甲府到着がちょうど、昼頃でしたので、戴きましたよ。
放蕩・・・じゃなくて、宝刀・・・でもなく、山梨県名物のほうとう・・・(笑)。
ぺろりと2杯平らげ、次に向かった先が・・・県庁(↓)
今でも、絵葉書にそのまま使えそうな佇まい・・・でしたが、なぜか、真ん中にどでかい煙突が立っており・・・。
誰に聞いても何のためにそこに立っているのか不明でした。
ゴミ燃やすだけなら、こんな、どでかい煙突はいらないでしょうし、
文化財という程には古くないなあ・・・と。
で、県庁を抜けて次に向かったのが、その傍らにある
甲府城。
恥ずかしながら、私は「武田家滅亡後、甲斐に入った
徳川家康は武田家の
躑躅ヶ崎館があった
古府中ではなく、少し離れたこの地を新たな拠点とした」とは記憶しておりましたが・・・、また、確かに、江戸時代は江戸の背後ということで、徳川義直、徳川忠長、徳川綱豊(家宣)、柳沢吉保ら、徳川将軍家の信頼が厚い有力者が配されて来たという認識はありましたが・・・・、それでも太平の世のそれですから、城と言うよりも居館というような物を想像しており・・・。
甲府城がこんなに立派なものだとは知りませんでした。
で、ここ、甲府城と我が、福岡市の
福岡城との意外な共通点が幾つかあることに気づきました。
まず、甲府城の別名は
「舞鶴城」だそうですが、実は福岡城も「舞鶴城」と言い、今では福岡城一帯を
舞鶴公園などと呼んでおります。
次に、福岡城は我々が子供の頃は徳川家に遠慮して
天守閣を作らなかった城・・・と聞かされていたのですが、最近の研究では「実は在ったけど、撤去した」・・・という意見が強くなってきているようです。
で、一方の甲府城ですが、聞けば、こちらも昔は「天守閣はなかった」となっていたそうですが、最近では天守台から地鎮祭をしたような遺構や
鯱の瓦が出てきたので、実は在ったんじゃないのか・・・という意見が強くなってきているのだとか。
ちなみに、福岡藩祖・
黒田長政は関ヶ原の戦い後に筑前を領有し、
「筑前守」を名乗りますが、それまでは、官職名は
「甲斐守」を名乗っており、長政死去後は宗家・
福岡藩の当主が筑前守を、支藩・
秋月藩の当主が「甲斐守」を名乗ることが多かったようです。
福岡と山梨、縁もゆかりもないようですが、意外に・・・。
また、いずれ続きます。
親愛なるアッティクスへ
平太独白