2000年1月、訳あって知己と京都を旅したことがあります。
実は、私が観光らしい観光で京都に行ったのはこの時が初めてでして、同行した知己は京都に住んでいたこともあり、案内してくれるということになりました。
で、「どこに行きたい?」と聞かれた私は、「鹿ヶ谷山荘」と・・・。
知己は、「そこは俺も行ったことがないなぁ」ということになり、調べたら「ある」ということがわかり、男二人で雪が舞う中、革靴にスーツ姿で向かいました。
途中、「鹿ヶ谷山荘」という名の料理屋があったのですが、「これじゃ無いだろう。もう少し、先まで行ってみよう」ということで、行ってみたのですが、ところが、山道をどこまで行っても何もない・・・。
やはり、遺跡は存在せず、同名の料理屋があるだけだった・・・という(笑)。

ちょうど、前回の大河ドラマ
「平清盛」はこの「鹿ヶ谷」でしたので、ふと、その話を思い出した次第です。
鹿ヶ谷山荘とは、治承元年(1177年)、平氏の専横に反発した
後白河法皇とその側近らが平家打倒を画策し、露見して潰された
「鹿ヶ谷の陰謀」の舞台となった所ですね。
当時、銚子のことを瓶子(へいし)と言ったらしく、それが倒れたのを見て、「へいし(平氏)が倒れた」と言って、喜んだ・・・という子供じみた逸話がありますが、本当に陰謀を企んでいたのであれば確かに子どもじみた話です。
当時の平氏の
諜報網を考えれば、察知されないはずはなく、ていうか、そもそも、そんな所に治天の君自らが出かけていく事自体、人の目を引くわけで・・・。
本当に陰謀を企むのなら、宮中でやるべきですよ。
ただ、私は今回のドラマを見ていて、想起したのは
大化の改新つまり、
蘇我入鹿暗殺と、それに伴う天皇家による政権奪取でした。
あの時も、入鹿暗殺後は、あれほど権勢を誇った蘇我家はあっさりと・・・、実にあっさりと滅びましたからね。
要は、TOPを獲る獲られるというのはそれほどに人心を一変させるということなのでしょう。
だとすれば、話を聞く限りでは計画自体はそれほど悪くなかったのかな・・・と。
ただ、大化の改新との違いは、首謀者自らが剣を振るわなかったことでしょう。
ここが、後白河法皇と
中大兄皇子の差、ひいては時代の違いなのでしょう。
結果、西光は死罪、
藤原成親父子、法勝寺の執行・
俊寛僧都、検非違使の
平康頼などが連座して配流に処され、後に、有名な赦免の迎え船は来たけれど、俊寛独り赦免されず・・・、去りゆく船を見送りながら、「せめて九国の地まで」と叫ぶ悲劇へと繋がっていくわけですね。
(九州人としては「『せめて』とは何だ!」と。←反応する所が違う?(笑)。)
親愛なるアッティクスへ 平太独白
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