団 琢磨という人物をご存知でしょうか。
現代では、むしろ、作曲家・団 伊玖磨氏の祖父として知られているようですが、簡単に触れておきますと、安政5年(1858年) 、筑前福岡藩の中級武士の家に生まれ、明治4年(1971年)、13歳に随行し、そのまま7年間、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学び卒業後、帰国。
東京帝国大学等で教鞭を執った後、三井炭鉱(福岡県大牟田市)へ転じ、明治21年(1888年)に三池鉱山が政府から三井財閥に売却されたときには、「私は三池炭坑に入ったのであって、三井が買収した以上、ここに留まるのは筋違いである。」と言って去ろうとすると、三井側は慌てて、「この買収代金には貴方も入っている」と言って引き留めたとか。
彼が、この時点で、すでに一介の技師ではなかったということが読み取れるでしょうか。
その後、大正3年(1914年)、三井財閥総帥にまで上りつめるも、昭和7年(1932年)、世界恐慌と満州事変の動乱のさ中、右翼団体のテロにあい死去。

祖父が暗殺されたとき、伊玖磨少年は7歳だったそうで、晩年、往事を振り返って、「昭和恐慌の不安が子供ながらにも伝わり、軍国主義の臭いが強くなっていく象徴が、祖父の〝
理由の分からない死″だった。」と述べておられました。
次いで、「音楽が楽しいからではなく、祖父が百年先を見据えて三池港を築港し、近代鉱山学を樹立したように、日本人の心に埋まり開発されていない音楽を見つけたかった。」・・・と。
ちなみに琢磨翁は
安政の大獄で有名な安政年間の生まれですが、実は大正15年没の私の高祖父(大工)も安政生まれでして、で、思い出したのが、あの
チャップリンの映画が大正14年に公開されたときのポスターの中の文句に
「天保生まれの祖父母にも楽しめる!」と記載されていたことです。
計算してみたら、このとき天保生まれは80歳~95歳。
つまり、天保年間は15年もあったわけで、従って
高杉晋作や
坂本龍馬など幕末の主役となった人たちの多くはこの天保年間の生まれだったわけですね。
でも、高杉や坂本の同級生はチャップリンを見ていた・・・と言うのも、ちょっと意外な気もします。
余談ながら伊玖磨氏は、新字体による
「団」という表記を激しく嫌っており、この表記による郵便物を一切受け取らなかったとか。
ところが、中国では
「團」という字には卑猥な意味があるそうで、北京では「先生の名刺は女性には見せられません」と言われ、制作に関わった中国映画が公開されたときのテロップには
「音楽 段伊玖磨」と出されていたとか・・・(笑)。
ちなみに、この中では「團琢磨」では人名なのか何なのかわからないと困ると思い、すべて、「団」で通しました。
泉下の團さん、お許しあれ!
平太独白
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