親愛なるアッティクスへ
先週の続きです。
関ヶ原という所は、中山道と北国脇往還や伊勢街道などが交差する要地(←)であったことから、何時の時代も権力にとっては見過ごすことができない交通の要衝であったようです。
(それらの街道がいつの時代からあったかは知りませんが、おそらくは、整備されなくとも昔から存在していたのだろうと思います。元々は人々が高地を避けて通っていた農道かあぜ道のような物だったのかもしれませんが。)
となれば、当然、たびたび、歴史の舞台になっているわけで・・・。
で、関ヶ原と言えば、関ヶ原の戦いばかりが有名でしょうが、もう一つ、日本史に残る大戦の舞台となっていることはあまり知られていません。
それが、672年に発生した大海人皇子)と実甥、大友皇子との間に勃発した壬申の乱・・・で、この付近で両軍が激突し、激戦が繰り広げられたと伝えられています。
戦いは大海人皇子側が勝利し、皇子は天武天皇となるわけですが、その直後に設置された3つの関所のうちの一つがここにあった不破関です。
(↑不破の関だそうです。)
関ヶ原の戦い後は、ここは街道の宿場が設けられ、随分と賑わったと言われていますし、その後は
旧帝国陸軍の何か施設があったように記憶しております。
(何より、今でも
高速道路、新幹線、在来線に
一般国道・・・とすべてここを通っていることがその辺を雄弁に物語っているのでしょうが。)
(↑)最後に関ヶ原駅に着き電車を待つまでの時間、ふと、前を見たのがこれ・・・。
今更、改めてどうこう言うものではないのでしょうが、私はこの中で一つだけ、意外な名前を発見しました。
それが
「平塚為広」・・・。
思わず、「へー」と唸りましたよ。
印象に残る武将であっても、それほどメジャーな人ではないですよね?
私は、まあ、知ってましたので、関ヶ原でこの人の碑を見つけた時には感慨を持って見つめましたが、駅の看板の中に書かれているというのは結構、意外でした。
文字通り、
看板スター・・・だ・・・と。
で、本当はもっともっと、語りたいことがあったのですが、用務多忙のため、この辺で・・・。
平太独白