親愛なるアッティクスへ
前回の続きです。
この、石田三成が本営とした笹尾山ですが、それにしても毎度思うのは、当時の武士たちは、よく、普通に、瞬時にこんな場所を選択したものだな・・・と。
正確な地図も航空写真も3Dもなかったのに・・・と。
(↑笹尾山からの眺めです。確かに関ヶ原盆地が一望できますね。)
おそらく、当時の人たちはある程度は土地の住民らに聞いたとしても、地形を見ればたちどころに「あの山に登ろう」、「こっちの丘が良い」とかわかったんでしょうね。
さすがに戦争に次ぐ戦争で鍛えあげられていた
戦国武士団の戦術眼であるな・・・と。
だって、この関ヶ原の戦いでは、拙著
「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」でも描いたことですが、西軍(石田方)は岐阜県の
大垣に居たのが、東軍(徳川方)の先回りをするような形で関ヶ原に進軍したものだから、西軍の後方と東軍の先方はくっつきそうになっていたそうで、つまり、関ヶ原に到着後はゆっくりと陣割をする余裕なんてなかったはずで・・・。
おそらく、簡単な打ち合わせくらいはあったかもしれませんが、後は
暗黙の了解、というよりも、そこは戦国乱世の戦争職人たち・・・、「言わずもがな」という感じでめいめいがめいめいに早い者勝ちで自らが布陣する場所を選び、そこへ布陣したのだと思われます。
この点は、以前、
平太郎独白録 : 大工の世界は無駄をそぎ落としたボクサーの趣きでも言ったことですが、
黒澤明監督の代表作、
「七人の侍」の中に登場する歴戦の勇士たちの姿は新築住宅の上棟式のとき、ベテラン大工たちの姿そのものに思えましたよ。
何も言わないでもわかる、言わなくてもすでに誰かがとりかかっている。
皆、長年の共通の体験があり、誰かが、系統立てて指揮指導しなくても、いつものように手慣れた手つきで眈々と段取りを進めている・・・。
初めて会う顔ぶればかりであったとしても、空気を読みながら、「誰もやらんなら、これは俺がやろう」とか、「これは年寄りの仕事だから、あの人がやるだろう」とか・・・。
誰もが、一々、下知を受けなくても、めいめいがめいめいに自ら持ち場を選択し、仕事にかかる・・・。
(↑
島津隊布陣の地。当時からこの神社はあったとか。猛将・
島津義弘とその配下の薩摩兵の姿が今でも見えるようです。)
あと一回くらい続けてもいいかな・・・と思っているけど、予定は限りなく未定・・・。
平太独白